1331年11月、幕府の大軍は次々と鎌倉へ帰還します。代わって戦後処理のために鎌倉からニ人の奉行人が京都に派遣されました。
「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は古代中国の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)口語訳としては「天勾践をむなしうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず」の方が有名。
という言葉を秘かに桜の木に刻みつけ先帝を慰めたというエピソードがあります。最近の研究では児島高徳の実在は疑われているんですが、皇位を巡る後醍醐天皇の不満と、生活に困窮し幕府に不満を持つ武士たちの気持ちが共通の敵鎌倉幕府に対して向けられていたという事実は想像できます。
先帝は隠岐に流され侘しい生活を送られたそうです。1332年の春から夏にかけて、後醍醐天皇の皇子で天台座主であった尊雲法親王すなわち護良親王が大和奥地の吉野、十津川当たりでしきりに蠢動しているとの噂が駆け廻ります。実は親王は元弘の変(後醍醐天皇の反乱)のあと行方をくらましていたのです。
12月、正成は幕府の留守部隊が守っていた赤坂城を急襲し奪取しました。翌年には小規模な幕府の討伐軍を破るほどの勢いでした。
一度滅んだはずの正成がなぜこのような力を持ちえたのか謎です。護良親王の令旨をうけ多くの武士や悪党たちがこれに加わったからではないでしょうか?それだけ幕府から人心が離れていた証拠です。
さすがに幕府もこれを捨て置けず、再び大軍を攻めのぼらせます。この時の幕府軍は五万とも三十万ともいわれる大軍でした。
今回も幕府軍は正成の変幻自在の戦法にかく乱され被害ばかりが増大しました。攻めあぐねた幕府軍は千早城の弱点と思われた水の手を断つ作戦を実行します。すなわち城の東の谷川の水を城兵が汲みに来たところを待ち伏せて討ち取ろうとしたのでした。
しかしこれは正成に逆に察知され、迂回路で背後に回った楠木勢に奇襲され散々に打ち破られます。
正成ほどの知謀の将が、城の弱点を知らないはずはありません。実は千早城には嶺の山伏だけが知る五所の秘水と呼ばれる湧水があったのです。これは籠城する城兵を潤すには十分な水でした。
高氏はこれを隠し、そのまま京都に入りました。4月16日の事です。
足利勢は丹波篠村に陣を張ります。ところが4月27日、名越高家は久我縄手の合戦で赤松勢に敗れ戦死してしまいます。動揺する六波羅の幕府軍をさらに驚愕させたのは足利高氏が幕府軍を裏切り宮方に付いたという報告でした。
5月7日、足利勢は早くも京都に入り嵯峨から内野当たりに布陣します。これに呼応するように赤松勢は東寺に、千草勢は竹田、伏見に迫っていました。
六波羅の城郭で探題の北条仲時、時益らは善後策を協議します。城を枕に討死しようという勇ましい意見もありましたが、とにかく光厳天皇と後伏見、花園の両上皇を伴って関東に下り体制を整えて再び攻めのぼるがよかろうと決まります。
たちまち合戦になり、六波羅探題南方の長官だった北条左近将監時益が首を射抜かれて戦死します。