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鎌倉幕府滅亡   Ⅲ 六波羅探題陥落

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 1331年11月、幕府の大軍は次々と鎌倉へ帰還します。代わって戦後処理のために鎌倉からニ人の奉行人が京都に派遣されました。
 
 
 先帝後醍醐は隠岐に、第一宮尊良(たかなが)親王は土佐、妙法院宮宗良(むねなが)親王は讃岐へそれぞれ配流と決まります。
 
 
 1332年3月7日、先帝後醍醐は配流先の隠岐島に向かうため京を出発しました。途中備前児島高徳という武士が
 
「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は古代中国の王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)口語訳としては「天勾践をむなしうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず」の方が有名。
 
という言葉を秘かに桜の木に刻みつけ先帝を慰めたというエピソードがあります。最近の研究では児島高徳の実在は疑われているんですが、皇位を巡る後醍醐天皇の不満と、生活に困窮し幕府に不満を持つ武士たちの気持ちが共通の敵鎌倉幕府に対して向けられていたという事実は想像できます。
 
 先帝は隠岐に流され侘しい生活を送られたそうです。1332年の春から夏にかけて、後醍醐天皇の皇子で天台座主であった尊雲法親王すなわち護良親王が大和奥地の吉野、十津川当たりでしきりに蠢動しているとの噂が駆け廻ります。実は親王は元弘の変(後醍醐天皇の反乱)のあと行方をくらましていたのです。
 
 
 親王は現地の土豪や熊野、高野山などの僧兵を組織し来るべき反抗の機会を狙っていました。1332年の冬には行方をくらましていた楠木正成も河内に出現し摂津の天王寺から渡辺にかけて軍を動かし始めます。
 
 
 12月、正成は幕府の留守部隊が守っていた赤坂城を急襲し奪取しました。翌年には小規模な幕府の討伐軍を破るほどの勢いでした。
 
 
 一度滅んだはずの正成がなぜこのような力を持ちえたのか謎です。護良親王の令旨をうけ多くの武士や悪党たちがこれに加わったからではないでしょうか?それだけ幕府から人心が離れていた証拠です。
 
 今回は、前回と違い正成以外にも多くの者たちが反幕府の旗を上げます。なかでも播磨(兵庫県西部)の豪族赤松則村入道円心の挙兵は京都に近いだけに脅威でした。
 
 こうした情勢を受けて、後醍醐天皇は1333年閏2月24日秘かに隠岐を脱出します。伯耆の豪族名和長年に迎えられ船上山(せんじょうせん)に城を築き籠城しました。
 
 
 さすがに幕府もこれを捨て置けず、再び大軍を攻めのぼらせます。この時の幕府軍は五万とも三十万ともいわれる大軍でした。
 
 最初の攻撃目標は、より与しやすいと思われた楠木正成でした。正成は赤坂城の背後金剛山系のさらに奥に千早城を築いて待ち構えます。
 
 
 今回も幕府軍は正成の変幻自在の戦法にかく乱され被害ばかりが増大しました。攻めあぐねた幕府軍千早城の弱点と思われた水の手を断つ作戦を実行します。すなわち城の東の谷川の水を城兵が汲みに来たところを待ち伏せて討ち取ろうとしたのでした。
 
 しかしこれは正成に逆に察知され、迂回路で背後に回った楠木勢に奇襲され散々に打ち破られます。
 
 正成ほどの知謀の将が、城の弱点を知らないはずはありません。実は千早城には嶺の山伏だけが知る五所の秘水と呼ばれる湧水があったのです。これは籠城する城兵を潤すには十分な水でした。
 
 戦いは長引き、幕府軍の損害は増大するばかりでした。そんな中、山陰から千草忠顕の軍勢、山陽の播磨路からは赤松円心の軍勢が京都を窺っているという報告が鎌倉に入ります。
 
 
 慌てた幕府は、援軍として名越高家足利高氏らに率いられた大軍を上洛させました。
 
 
 ところがその高氏のもとへも後醍醐天皇の密勅は届いていました。実は足利氏は源氏の名門で潜在的に北条氏の専制体制に強い不満を持っていたのです。それを見抜いた宮方の働きかけでした。
 
 
 足利氏の守護国であった三河に到着した時高氏の腹は決まります。腹心の上杉重能(しげよし)、細川和氏を秘かに先発させ船上山に派遣しました。二人は綸旨を持ちかえり近江で足利軍と合流します。
 
 高氏はこれを隠し、そのまま京都に入りました。4月16日の事です。
 
 
 六波羅で協議した幕府軍首脳は、足利高氏丹波で千草勢に当たり、名越高家は摂津で赤松勢を防ぐという方針を決めます。両軍はそれぞれの任地へ向かいました。
 
 
 足利勢は丹波篠村に陣を張ります。ところが4月27日、名越高家は久我縄手の合戦で赤松勢に敗れ戦死してしまいます。動揺する六波羅幕府軍をさらに驚愕させたのは足利高氏幕府軍を裏切り宮方に付いたという報告でした。
 
 
 5月7日、足利勢は早くも京都に入り嵯峨から内野当たりに布陣します。これに呼応するように赤松勢は東寺に、千草勢は竹田、伏見に迫っていました。
 
 
 六波羅勢と足利勢は京都で激しくぶつかります。裏切りに対する怒りから幕府軍は足利勢を圧倒したそうです。しかし情勢は不利、孤軍奮闘した六波羅勢は次第に押され始め、最後は潰走に変わりました。
 
 
 六波羅の城郭で探題の北条仲時、時益らは善後策を協議します。城を枕に討死しようという勇ましい意見もありましたが、とにかく光厳天皇と後伏見、花園の両上皇を伴って関東に下り体制を整えて再び攻めのぼるがよかろうと決まります。
 
 
 天皇上皇の了解を得たのち六波羅勢は夜半、都を脱出します。しかし山科あたりにはすでに落人狩りの野伏たちが待ち構えていました。
 
 たちまち合戦になり、六波羅探題南方の長官だった北条左近将監時益が首を射抜かれて戦死します。
 
 
 夜が明け近江に逃れた一行でしたが、守山にも野伏が待ち構えていました。ここでも大きな被害を出し美濃との国境である伊吹山の麓に到着した時には疲労困憊でした。
 
 
 さらにここから先、美濃には足利方の土岐氏三河には吉良氏が待ち構えています。この厳しい状況に六波羅勢は絶望しました。
 
 番場(ばんば 滋賀県坂田郡米原町)の蓮花寺に入った六波羅探題北方長官、北条仲時以下の軍兵はそこでことごとく自害して果てます。総勢四百三十余。
 
 
 承久の乱以降、大きな権力をふるった六波羅探題はここに滅亡します。光厳天皇と両上皇は宮方の武士に捕えられ間もなく帰洛しました。1333年5月の出来事です。
 
 
 
 六波羅探題滅亡の報告を受けた後醍醐天皇は、光厳天皇を廃し、年号を正慶から元の元弘に戻しました。あくまで自分が天皇として続いていたという建前でした。捕われの光厳天皇はこれを飲むしかありません。
 
 
 一方、足利高氏は早くも六波羅に入り勝手に奉行所を設立します。これは北条氏に代わり自分が幕府を開くという意思表示でした。
 
 
 後醍醐天皇足利高氏は、互いに違った未来を描いていました。それが建武の新政の破綻に繋がり南北朝の動乱を引き起こすことになるのです。
 
 
 我々はそこに至る前に九州における鎮西探題長門探題、そして鎌倉幕府滅亡の歴史を見なければなりますまい。