

が、彼を抜擢した主君牧野忠恭の知遇に応えるためにもまず長岡藩を第一に考えないといけませんでした。長岡藩牧野氏は譜代で代々徳川家の君恩を受けていました。河井は自分の本意とは別に、まず主君の希望通り徳川家に殉ずる道を選ばなくてはならなかったのです。
公儀思想と佐幕思想の折衷点として河井は武装中立を考えます。武装中立論を唱え薩長と徳川家の間を取り持つ、これが彼の理想でした。しかしこれは茨の道でした。理想としては素晴らしくても現実はとても厳しかったのです。
そのためには富国挙兵が最優先課題です。執政(主席家老)に抜擢された河井がまず行った事は、牧野家累代の財宝を叩き売る事でした。さらに交易にも手を出し、安い米を江戸で仕入れ米価の高い函館で売る、あるいは銅銭と小判の交換レートが江戸と越後で違う事に目を付け江戸で銅銭を大量に交換し、新潟港に持って行って小判と両替する事で差額を儲けるなどして莫大な軍資金を得ます。
交易の過程でスネルなどの欧州の交易商とつながりを持ち、彼らを通じて西洋の近代的装備を買い集めます。スナイドル銃などの元込め銃、近代的な元込め式大砲、さらには日本に3門しか来ていなかったガトリング砲のうち2門(残り一門は薩摩藩が買う)を購入するなどしました。
河井は近代的装備をもとに藩兵に洋式訓練を施し、長岡藩は小藩ながら精強な軍隊を作り上げました。
この一点だけを見ても彼が一介の佐幕政治家で無かった事がわかるでしょう。
ここまで来ては仕方ありません。河井は奥羽越列藩同盟加盟を決断します。それまで中立を主張し、会津藩兵も領内に入れてなかった長岡藩ですが、以後は彼らを受け入れます。そして河井が鍛え上げた長岡藩兵1500は、油断していた新政府軍に対し戦端を開きました。
大村は、北越戦線を重視せず敵の首魁である会津藩さえ倒せばそれ以外の敵は自然に立ち枯れると考えていました。大局的にはそれで間違いなかったのですが、山県は北越で一時的にせよ負ける事で嫌々新政府軍につき従ってきた他藩の離反を恐れていました。また新政府の脆弱な基盤が諸外国に露呈し足元を見られる事も危惧していたのです。
このあたり、東京で全軍を指揮している者と前線で戦い空気を感じている者との違いで興味深いものがあります。
山県は、膠着状態を打開するため信濃川を強行渡河し長駆長岡城を衝く事を考えます。この作戦は図に当たり長岡城は新政府軍の手に落ちました。
精強な洋式軍隊とはいえ、わずか1500人。すべての面を防御する事は不可能でした。一方奥羽戦線が安定してきたことから新政府軍には続々と援軍が到着し始めていました。最終的には三万とも六万ともいわれる大軍が越後戦線に集結したといわれます。
河井は、しかし逆襲に転じます。夜陰に乗じて長岡城の弱点である八丁沖方面から奇襲し慌てた新政府軍は碌に戦いもせず敗走しました。
このとき装備のほとんどを遺棄し、長岡軍は莫大な軍需物資を手に入れたそうです。しかし体勢を立て直した新政府軍は総攻撃を開始、長岡軍も4日間は持ちこたえましたが多勢に無勢、ついに撤退します。
そして河井にとっても奥羽越列藩同盟にとっても不幸な出来事が襲いかかりました。激戦の撤退戦で自ら殿を買って出た河井の左膝を敵弾が貫通します。
政治家としても軍人としても幕末に稀有な存在だった河井継之助。長岡藩などの小藩ではなく薩摩や長州など西国雄藩に生まれていれば明治新政府で大きな働きをした事は確実でしょう。また佐幕派でも会津や仙台藩でならもっと大きな仕事ができたに違いありません。
大きな才能を抱きながら滅びゆく徳川家に殉じた河井継之助、まさに越後の龍ともいうべき英傑でした。