上表は廃藩置県(明治3年)時に、全国諸藩が提出した報告のうち有力諸藩を抜き出したものです。
このうち長岡藩の後装銃保有数が少ないように思われますが、おそらく北越戦争で消耗し残ったのがこれだけだったのでしょう。ある資料では河井継之助が購入した銃を後装式スプリングフィールド(=スナイドル銃あるはそれに準ずるもの)としていますし、それとは別にシャープス騎兵銃100挺を購入したという資料もあります。
表を見ると幕府の軍備が突出している事が分かります。しかも幕府洋式軍隊が装備する後装銃にはシャスポー銃という近代的ボルトアクションライフル2000挺も含まれるのです。
ただそれ以外の佐幕派雄藩(長岡藩を除く)はまだまだ近代化が遅れていたと言わざるを得ません。桑名藩などは後装銃ゼロ。これで立見 尚文(たつみ なおふみ 当時は鑑三郎)はしばしば薩長軍を破ったといいますから、「どんだけ名将なんだ!」と驚かされます。
一方、新政府軍の主力である薩長土肥の軍備は幕府には及ばないものの他藩を圧倒していた事が分かりますね。土佐はやや劣りますが残り三藩は後装銃の装備も他藩に突出しています。
近代的装備と洋式訓練で鍛えられた軍隊が明治維新の原動力なのでしょう。幕府は軍備というより指揮官の質の問題が大きかったのかもしれません。兵士の質は高くともそれを指揮する者が門閥で選ばれたため能力を100%発揮できませんでした。
会津藩がいくら精強でも、刀・槍・火縄銃ではミニエー銃やスナイドル銃、アームストロング砲には対抗できなかったでしょう。東国諸藩がありがたがって購入した洋式銃のゲベール銃は火縄銃に毛が生えたものにすぎません。西洋でも旧式化して在庫一掃するために日本に持ち込んだようです。
同じ前装銃でも銃身にライフリングを施したミニエー銃は最大射程1000ヤード(約914m)、一方ゲベール銃は300m、これでは勝負になりません。命中精度もミニエー銃のほうがはるかに高かったそうです。
軍備を整えるにも情報が一番大切でしたね。でないと質の悪い西洋武器商人の口車に乗せられて粗悪品をつかまされますから。西洋文明に接する機会の高かった西国雄藩、太平の眠りからなかなか覚められず気がついた時には手遅れだった東国諸藩。情報の差が戊辰戦争の勝敗を分けた原因の一つかもしれません。