鳳山雑記帳はてなブログ

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フラグの西征  ④アインジャールートの戦いとイル汗国の成立 (完結編)

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 マムルーク朝というのは、前代のアイユーブ朝の王統が絶えたため最後の王の夫人で奴隷身分であったシャジャル・アッ=ドゥッルをマムルーク軍団(軍人奴隷)バフリーヤが擁立、シャッジャルを女スルタンに立てる事で建国した王朝です。その成立から権謀術数が明らかなように、世襲ではなく時の権力者であるマムルーク軍団バフリーヤの実力者が、前スルタンを殺すか排除し即位して継いでいくという軍事国家でした。
 
 そのため侵略者モンゴルとは徹底的に戦うという事でマムルーク軍団幹部の意見は一致します。シリアやエジプトはもともと歩兵が主力ですが、キプチャクやトルコの遊牧民族出身が多かったマムルーク軍は、騎兵が主力でモンゴルの戦い方も見てきていました。モンゴルから戦術を学びその対抗策も考えていたに違いありません。
 
 「モンゴル軍恐るるに足らず」という気概があったのでしょう。
 
 1260年春、西方経略中のフラグのもとにモンケ汗死去の報が入ります。フラグは占領地をキドブハら将軍たちに任せ自らはモンゴル高原帰還の準備を始めました。
 
 
 そんな中、この事を知ってか知らずかキトブハはマムルーク朝に対して降伏するよう使者を派遣します。クトゥズがこれを拒否したためキドブハは兵を率い南下を開始しました。
 
 対するクトゥズはマムルークの主力を率いてこれを迎え撃つべく北上しました。バフリーヤの元同僚でクトゥズと対立してシリアに追放されていたバイバルスマムルーク軍に加わります。
 
 9月3日、両軍はガリラヤの丘陵地帯で激突しました。兵力ははっきりしませんがマムルーク軍が12万前後、キドブハ率いるモンゴル軍が2万と伝えられます。モンゴル軍の兵力が少なすぎる気もしますが、いままでこれくらいの兵力差でも簡単に敵を撃ち破っていたので相手を舐めていたのかもしれません。
 
 ところが相手は戦争のプロであるマムルーク、しかもモンゴルと同じ遊牧民出身の騎兵軍でした。
 
 戦場には小さな川が流れていました。アラビア語でアインジャールート(ゴリアテの泉)。
 
 
 マムルーク軍は、全軍が直接モンゴル軍と当たるのを避け、まずバイバルス率いる先鋒隊が攻めかかりました。バイバルス部隊はモンゴル軍より少なく、戦闘はあっけなく決着します。バイバルスは敗走し、それをモンゴル軍が追撃しました。
 
 しかしこれはマムルーク軍の罠だったのです。いつのまにかマムルーク軍本隊の待ち受ける中に誘導されたモンゴル軍は絶体絶命の窮地に立たされます。
 
 それでもモンゴル軍はやはり強力でした。太鼓の音を合図に馬上から猛烈な矢の雨を注がれたマムルーク軍は立ち往生します。突撃もせず一瞬ひるんだ自軍に苛立ったスルタン・クトゥズは、馬上から己の冑をなげうつと真っ先に突撃しました。
 
 このあたり軍人スルタンの面目躍如なのでしょうが、さすがに主将にそのような勇気を見せられたらマムルーク軍も突撃せざるを得ません。戦いは一進一退の攻防を繰り返し昼過ぎまで続きました。
 
 が、実力が互角なら最後に物をいうのは数です。6倍近くの敵軍と互角の戦いを繰り広げたモンゴル軍でしたが、さすがにこの頃になると疲労の色を隠せなくなりました。モンゴル軍の主将キドブハは乱戦の中壮烈な戦死を遂げたとも、敗走して捕えられ処刑されたとも言われはっきりと分かりません。
 
 また戦いの経過も資料によってまちまちで、決戦の後に伏兵でやられたという説もありますが、上記の話の方が合理的なのでこちらを採用させていただきました。 
 
 
 キドブハの首は勝利の証としてカイロに送られ市場(バザール)に晒されたといいます。
 
 
 もしモンゴル軍の指揮官がキドブハではなく郭侃(かくかん)であったら違った結果になったかもしれないと思うと興味は尽きません。クトゥズは敗残のモンゴル軍を追って北上、輜重隊を襲い生き残ったモンゴル軍の家族も虐殺しました。シリアはマムルーク軍によってことごとく奪回され、以後フラグの領土になる事はありませんでした。
 
 
 キドブハの敗報を聞いたフラグ配下の諸将は激昂します。しかしモンケ汗亡き後の後継者レースに参加することを最優先するフラグは、若干の守備隊をシリア国境に送ったのみでした。またマムルーク軍もモンゴルと全面戦争する気はなく、あくまで防衛戦争でしたのでシリアを奪った時点で満足し兵を返します。
 
 
 モンゴル帰還の途中、フラグは同腹の兄弟であるフビライとアリクブカが大汗位を巡る抗争を始めた聞き自分が大汗位を継ぐ可能性がなくなったと悟ります。しかもアリクブカと同心するチャガタイウルスがフラグの帰還を遮ったためペルシャで自立する決意をしました。
 
 一方、フラグと途中まで同行していた郭侃は、フラグの自立に反対、単身東帰して1260年フビライに謁見、そのままフビライに仕える事となりました。その後、元朝の将軍として襄陽城を攻略するなど世界をまたにかけたスーパーマンのような活躍をします。ただあまりにも現実離れした活躍に西域での活躍は架空なのではないかという説もあります。
 
 
 フラグは首都をタブリーズに定め、イル汗国(フラグ・ウルス)を建国しました。シリア奪回とキドブハの仇を討ちたいフラグでしたが、モンゴル帝国の後継者争いとそれにつづく分裂でキプチャク汗国、チャガタイ汗国と対立関係に陥り、これらの対応に追われシリア以西にはついに進出できませんでした。
 
 
 アインジャールートの戦いはモンゴル帝国にとっては致命傷とならない局地的敗北でしたが、その膨張が止まったという意味で欧州史におけるレパントの海戦と同様大きな意味を持つと考えます。
 
 
 以後イル汗国は1353年まで約100年、消長を繰り返しながら続きます。最後はどのようにして滅びたのか分からないように分裂し消え去りました。