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大友能直(よしなお) 頼朝御落胤説

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 鎌倉以来の名家で、代々豊後国(大分県)に勢力を扶植し戦国時代になると一時九州6ヶ国を支配した大友氏。戦国期の当主大友宗麟が有名ですが、初代大友能直(1172年~1223年)は無名の御家人から豊後の守護という大役に抜擢されたため古くから頼朝の御落胤ではないかとまことしやかに言われていました。

 今日ではこれを否定する研究者が多いのですが、そう取られても仕方のない事実がありました。といいますのも能直の母、利根局はもともと源頼朝の愛妾だったからです。しかし正室北条政子に嫉妬され、無理やり離縁させられ御家人古庄(近藤)能成に嫁がされます。

 そこで生まれたのが能直。長じて相模国大友郷(母の生家波多野経家の所領)を継承し土地の名を取って大友氏を名乗りました。さらに近藤氏の親戚で幕府重臣でもあった中原親能の養子になります。


 能直が本当に御落胤だったかどうかはそれこそ当事者でないと分かりませんが、少なくとも頼朝にとってはかつて愛した女性の子供ということで、能直が可愛くて可愛くてしょうがなかったようです(笑)。


 ウィキペディアでみると【文治4年(1188年)に17歳で元服。この年の10月14日に源頼朝の内々の推挙によって左近将監に任じられる。病のため相模の大友郷にあり、12月17日になって大倉御所に初めて出仕し、頼朝の御前に召されて任官の礼を述べている。『吾妻鏡』は能直を、頼朝の「無双の寵仁(並ぶ者のないお気に入り)」と記している。翌文治5年(1189年)の奥州合戦に従軍。頼朝の近習を務め、建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちでは、曾我時致の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守った。】とあります。


 頼朝の過保護ぶりは、能直が豊後守護になった後も続きます。能直を後見させるために、近臣の中原親能(能直の養父)を肥後・筑後の守護にして一時九州に派遣しているくらいです。


 ちなみに、能直の父近藤能成の弟(叔父)が武藤頼平で、その猶子(義理の親子関係)が武藤資頼筑前少弐氏の祖)ですから、直接の血縁関係ではありませんが家系上は繋がりがあるわけです。



 頼朝の嫡子頼家や実朝は非業の最期を遂げましたが、庶子かもしれない能直は遠国九州に赴任していたため北条氏の警戒を受けず生き残れたのでしょう。


 能直は、豊後、筑後の守護を歴任し鎮西奉行にもなっています。その後京と鎌倉を往復し、最後は1223年京で死去したそうです。享年53歳。


 大友能直鎌倉時代でも一二を争う幸運児だったのかもしれません。