鳳山雑記帳はてなブログ

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緒方三郎惟栄(これよし)のこと

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 緒方三郎惟栄(これよし 惟義とも書く)という人物の事を聞いた事のある方はほとんどいないでしょう。源平合戦に詳しい方なら、「ああ、義経に味方して豊後に義経一行を迎えようとした人ね。岡城は義経のために惟栄が築いたともいわれているね!」と思い出すかもしれません。
 
 生没年不詳。三輪大社に関係のある古代豪族大神(おおみわ)氏から分かれたといわれている豊後大神(おおが)氏の一族で豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方町を領したことから緒方氏を称しました。
 
 だいたい平安末期から鎌倉初期の武将です。
 
 私が不思議に思うのは、平安末期あれほど大勢力を誇りながら惟栄本人の没落と共に緒方氏は振わなくなり武家としてはほとんど勢力を失ったことです。
 
 もともと惟栄は平家の家人で平重盛と主従の関係を結んでいたとされます。が、機を見るのに敏だった彼は1181年には鎌倉で挙兵した源頼朝にいち早く誼を通じ平家に反旗を翻します。
 
 というのも九州における平家方の大勢力、筑前の原田氏(大蔵氏の嫡流)に対する根強い反発があったためともいわれます。原田種直が大宰権少弐に任ぜられ、平重盛の養女を妻に迎えるなど優遇されていたのに対し自分達大神一族が冷遇されているという僻みもあったのでしょう。
 
 もともと平家は筑前肥前に縁を持ち(平清盛国司を歴任し神埼荘という大荘園をもっていた)地元の大勢力である原田党と結びつく必要があったのに対し、豊前や豊後とは縁が薄かったということもありました。
 
 惟栄は、同族の臼杵氏、長野氏らとともに豊後目代(平家の代官)を追放し、反平家方の松浦党、菊池氏、阿蘇氏らとともに九州における平家方と激しく戦いました。惟栄の活躍で九州における源氏方が増加したのは彼の功績だと思います。
 
 しかし、1183年平家が都落ちすると九州における平家方の原田種直、山鹿秀遠らが反撃を開始、九州源氏方は一時劣勢に立たされます。
 
 が、惟栄は豊後国司藤原頼輔を通じて平家追討の院宣を受け再び源氏方を糾合します。緒方惟栄は肥後口から、日田永秀は日田口から、臼杵惟隆は豊前口から筑前に攻め込み大宰府を落としました。原田種直は激しく抵抗するも敗れ芦屋の山鹿城(福岡県遠賀郡芦屋町にあった山城)に撤退します。
 
 源範頼山陽道に侵攻した際兵糧が不足するとこれを提供し、壇の浦の戦いでは豊後水軍の兵船を提供するなど大きな功績をあげました。
 
 
 実は緒方惟栄は以前平家方の宇佐大宮司家と対立し宇佐神宮の焼き打ちなどを起こし上野国沼田に配流が決まっていたのですが、平家追討の功績で不問に付されます。
 
 これだけ大きな功績をあげた惟栄ですが、源頼朝はあまり高くは評価しなかったようです。惟栄としては源氏の総大将として西国に来た源義経に近づいただけでしたが、それが裏目に出たのでした。
 
 政治力のない義経後白河法皇に利用され頼朝と対立し、頼朝はそのために義経に近い武将にも猜疑の目を向け始めました。
 
 鎌倉との対立が決定的になった義経は惟栄ら西国武士団を糾合して挙兵しようと摂津大物浦から出航するも暴風雨に遭って難破、押し戻されてしまいます。
 
 この時惟栄が義経一行を迎えるために築いたのが岡城(大分県竹田市)だったといわれますが、これには否定的な意見もあります。
 
 
 一方、惟栄は先手を打った鎌倉方によって捕えられ領地没収、沼田に配流されました。その後赦免され故郷に戻って病死したとも配流先で死去したともいわれ最期ははっきりしません。
 
 
 平家方の原田種直が、壇の裏の後捕えられ鎌倉扇谷(おうぎがやつ)で幽閉されるも13年ののち赦され筑前怡土庄(福岡県糸島市あたりか?)を与えられ曲がりなりにも戦国時代まで続くのと比べると緒方氏はその後忽然と消えているのです。もちろん直系以外の緒方氏や大神一族の同族である臼杵氏などは生き残っています。
 
 
 その後幕府から豊後の守護を拝命したのは頼朝落胤伝説まである大友能直落胤かどうかは眉唾でも頼朝愛妾であった利根局の子としてお気に入りの側近であった能直が守護になったということは、頼朝の九州支配の方針を物語っているような気がしてなりません。
 
 外様の緒方氏ではいつまた反旗を翻されるか分からないので頼朝は心の底では信用していなかったのでしょう。惟栄も頼朝の猜疑を敏感に感じているからこそ義経に賭けたのかもしれません。 
 
 
 豊後の佐伯氏ら大神一族はその後大友氏被官として支配体制に組み込まれ生き残りました。