
政権の運営は武力だけでは成り立ちません。文書を司り朝廷との外交に携わり、ときには頼朝に献策する有能な補佐役たちの存在は不可欠でした。彼らなくしては武家政権は誕生出来なかったとも言えます。
◇大江広元
彼に関しては一度記事にしています。
代々学者として名高い大江家の出身で、生母が再婚した中原家で中原親能(ちかよし)の義弟となります。頼朝と近かった親能の縁で、鎌倉に下り頼朝に仕えました。文書に明るく、兵法の家であることから頼朝にたびたび献策しています。
◇斎院次官中原親能(ちかよし)
大江広元の義兄。もともと河内源氏(頼朝の家系)に連なる波多野氏と親戚で、頼朝挙兵で平氏に睨まれたことから鎌倉に逃亡。京の朝廷にも人脈があったことから頼朝の絶大な信頼を受け、1183年義経の軍勢と共に上洛、頼朝の代官として権勢を振います。
なお大友能直には頼朝御落胤説がありますが、これは大友氏が波多野氏と関係あることと、親能の養子になった事のほかにわざわざ頼朝が豊後守護になった能直の後見として親能を九州に送り込んだ事も噂の出どころなのだと思います。
1183年10月公文所寄人。1191年政所公事奉行。子孫は九州各地に広がります。以前記事にした鹿子木氏などもそうです。大友氏とはその成立の過程からほぼ同族といってもよいでしょう。
◇三善康信(みよしやすのぶ)
代々太政官の書記官役を世襲する下級貴族。母が頼朝の乳母の妹。その関係から伊豆に流された頼朝のために京都の情勢を知らせていました。平氏政権に睨まれて京にいられなくなり鎌倉に下向。以後は頼朝側近として仕えます。
初代問注所執事(長官)。広元、親能らと違って地味ですが官僚としての実務能力は一番優れていたのではないかと思います。
長年朝廷に仕えていたため、貴族たちが言葉だけは威勢良くても覚悟もなく形勢が少しでも不利になると腰砕けになる事を熟知していたのでしょう。
◇一条能保(よしやす)
藤原北家中御門流。妻が頼朝の同母妹(坊門姫)。木曽義仲が京に入ると立場が危うくなり鎌倉に下向。頼朝唯一の肉親(範頼、義経は異母弟)の夫であったことから頼朝の信頼厚く、武家政権成立後は京に戻り頼朝の威光を背景に讃岐守・左馬頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・従二位と異例の栄進をします。
頼朝の代官として京の朝廷に睨みを利かせ、後の六波羅探題の基礎を築きました。頼朝の側近というより鎌倉に近い貴族というべきかもしれません。
有名どころはこれくらいでしょうか?あと梶原平三景時も鎌倉武士というよりは教養高く頼朝の代官として軍目付など歴任したことから文官と見て良いかもしれませんね。
任務に忠実だった事がかえって仇となったのでしょう。武断派から嫌われたことも三成、正信らと共通します。