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源頼朝側近の文官団

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 関東に独自の武家政権を創設し、武士の世をもたらした源頼朝。しかし彼の覇業には大江広元をはじめとする有能な文官たちの働きが大きかったのです。
 
 政権の運営は武力だけでは成り立ちません。文書を司り朝廷との外交に携わり、ときには頼朝に献策する有能な補佐役たちの存在は不可欠でした。彼らなくしては武家政権は誕生出来なかったとも言えます。
 
 大江広元は有名ですがそれ以外にも重要な役割を果たした者たちがいます。今私のマイブームは平安から鎌倉時代にかけての歴史でして、彼らの事を紹介したいと思います。
 
 
 
 彼に関しては一度記事にしています。
 
 代々学者として名高い大江家の出身で、生母が再婚した中原家で中原親能(ちかよし)の義弟となります。頼朝と近かった親能の縁で、鎌倉に下り頼朝に仕えました。文書に明るく、兵法の家であることから頼朝にたびたび献策しています。
 
 頼朝と義経が対立すると、義経を後押しした後白河法皇の政治的失点を上手く衝き朝廷を脅して守護・地頭の制を導入させたのは広元の功績だといわれています。
 
 初代公文所(のちの政所)別当(長官)。 子孫に長井氏、毛利氏などがあります。
 
 
 
 
◇斎院次官中原親能(ちかよし)
 
 大江広元の義兄。もともと河内源氏(頼朝の家系)に連なる波多野氏と親戚で、頼朝挙兵で平氏に睨まれたことから鎌倉に逃亡。京の朝廷にも人脈があったことから頼朝の絶大な信頼を受け、1183年義経の軍勢と共に上洛、頼朝の代官として権勢を振います。
 
 貴族にかかわらず平家追討に参加するなど頼朝文官団では変わり者だったともいえます。平家滅亡後は九州に下向した大友能直(よしなお)の後見として肥後・筑後の守護を兼任するなど行動力は一番ありました。
 
 なお大友能直には頼朝御落胤説がありますが、これは大友氏が波多野氏と関係あることと、親能の養子になった事のほかにわざわざ頼朝が豊後守護になった能直の後見として親能を九州に送り込んだ事も噂の出どころなのだと思います。
 
 1183年10月公文所寄人。1191年政所公事奉行。子孫は九州各地に広がります。以前記事にした鹿子木氏などもそうです。大友氏とはその成立の過程からほぼ同族といってもよいでしょう。
 
 
 
 
三善康信(みよしやすのぶ)
 
 代々太政官の書記官役を世襲する下級貴族。母が頼朝の乳母の妹。その関係から伊豆に流された頼朝のために京都の情勢を知らせていました。平氏政権に睨まれて京にいられなくなり鎌倉に下向。以後は頼朝側近として仕えます。
 
 初代問注所執事(長官)。広元、親能らと違って地味ですが官僚としての実務能力は一番優れていたのではないかと思います。
 
 承久の乱では、鎌倉武士たちが後鳥羽上皇を討つ事をためらう中、広元とともに「断固討つべし!」と強硬論を主張し執権北条義時を説得したことが勝利につながりました。
 
 長年朝廷に仕えていたため、貴族たちが言葉だけは威勢良くても覚悟もなく形勢が少しでも不利になると腰砕けになる事を熟知していたのでしょう。
 
 子孫は筑後で、そのものずばりの問注所氏を名乗ります。
 
 
 
 
一条能保(よしやす)
 
 藤原北家中御門流。妻が頼朝の同母妹(坊門姫)。木曽義仲が京に入ると立場が危うくなり鎌倉に下向。頼朝唯一の肉親(範頼、義経は異母弟)の夫であったことから頼朝の信頼厚く、武家政権成立後は京に戻り頼朝の威光を背景に讃岐守左馬頭右兵衛督参議・左兵衛督・検非違使別当権中納言従二位と異例の栄進をします。
 
 頼朝の代官として京の朝廷に睨みを利かせ、後の六波羅探題の基礎を築きました。頼朝の側近というより鎌倉に近い貴族というべきかもしれません。
 
 なお鎌倉幕府四代将軍九条頼経は、頼朝の同母姉妹(能保の妻)の曾孫であることを理由に将軍に擁立されたそうです(ウィキペディアより)。
 
 
 
 
 有名どころはこれくらいでしょうか?あと梶原平三景時も鎌倉武士というよりは教養高く頼朝の代官として軍目付など歴任したことから文官と見て良いかもしれませんね。
 
 鎌倉武士の中では頼朝側近の文官たちと普通に会話できたそうですから。判官贔屓から見ると大悪人のイメージがあるでしょうが、私はどうも彼を憎めないんです。石田三成本多正信らと同じにおいがするんですよね。
 
 任務に忠実だった事がかえって仇となったのでしょう。武断派から嫌われたことも三成、正信らと共通します。