ところがこの民族は、日本史と深く関わりを持っているのです。
658年から3年間、朝廷の命で日本海側を北上して蝦夷を服属させたという黎明期の日本水軍大将、阿倍比羅夫のことを聞いた事のある方もいるかもしれません。この後663年唐・新羅の連合軍と戦った白村江の海戦で日本水軍を指揮したのも彼でした。
阿倍比羅夫の遠征報告の中で、渡島(今の北海道)まで足を伸ばした阿部水軍が蝦夷と対立していた粛慎という民族を討ったという記録があります。
報告書では、すくなくとも粛慎と蝦夷は別の民族として書かれています。実はこの粛慎はどこから来た民族かも、どこに住んでいたかも謎の民族なんです。
中国の文献にも登場することから、満州からシベリアにかけて住んでいたツングース民族の一派ではなかったかと推定されています。
日本でも「欽明天皇の時(544年)に佐渡島へ粛慎が来た」という記録がある事から、日本海、オホーツク海沿岸にすんでいた民族であることは間違いないと思います。しかも内陸ではなく沿岸部を活動の拠点にしていたことも。
ここで私は北海道のオホーツク沿岸に栄えたオホーツク文化を担った人々のことを考えてしまいます。
【オホーツク文化とは…3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。
海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。同時期の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。】(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
このオホーツク人と言われる人々も13世紀に忽然と消えているのです。私はオホーツク人こそ粛慎ではなかったかと推測します。蝦夷ではなく北海道にゆかりの民族で、時代的にもちょうど合うような気がします。
また研究者の中には、北海道アイヌの伝説にあるコロボックル(アイヌ語で「蕗の葉の下の人」の意味)伝説を粛慎(=オホーツク人)だったと考えている人もいるそうです。
なぜオホーツク人が北海道から消えたかについては謎だそうですが、一応アイヌの進出によって生活圏を奪われ同化されたか北海道から出て行ったのだろうと言われています。
コロボックルの伝説では
【アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。
彼らは情け深くアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていたが、姿を見せることを極端に嫌っており、それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。】(ウィキペディアより)
とされることから、平和を愛する牧歌的な民族だったような印象です。
日本列島に、かつてこのような異民族が住んでいたということも驚きですが、粛慎がコロボックル伝説のモデルかもしれないと思うと浪漫がありますね。将来謎が解明されることを期待します!