鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

馬日本伝来の謎

イメージ 1

 最近、『山梨県の歴史』(山川出版)を読んでいるんですが、その中に前期古墳(4世紀)に馬具の出土が無く、中期古墳(5世紀)でぼつぼつ馬具が出土し始め後期古墳(6世紀以降)になって馬具の副葬品が一般化したという記述がありました。

 この事から、馬が日本に伝来したのは4世紀末前後であろう事が推定されます。同時に、江上波夫氏の『騎馬民族征服説』が成立しない事も明らかになります。実は私、高校時代に江上氏の『騎馬民族王朝』を読んで衝撃を受けて以来長い間騎馬民族征服説を支持していたのですが、自分で調べていくうちにかなり苦しい理論だと理解するようになりました。というのもこのころすでに大和王朝は成立しており、半島へ出兵をするくらいだったからです。

 普通に考えれば、大和朝廷が半島出兵した時騎馬戦術とその技術を学び日本に導入したと理解するのが自然です。それは騎馬遊牧民族だったツングース系扶余族(百済の支配民族も扶余族)かもしれないし半島にもともと居住していた和人で騎馬技術を学んだ者を日本に連れ帰ったのかもしれません。どちらにしろ日本の国体を変えるほどの数(民族単位ごと、少なくとも万単位)ではなく、技術者として数百から多くても数千の範囲に収まっただろうと思います。

 ただ誤解してもらいたくないんですが、江上氏の東洋史学者(特に遊牧民族研究)としての功績は尊敬していますし、彼の著書『北アジア史』『中央アジア史』は私のバイブルとも言えるほど評価しています。

 話を戻すと、これまでの過去記事の考察で稲作伝播の過程で古代海洋民族だった縄文人が半島南部にも居住し、馬と騎乗の技術は半島でそれを学んだ彼らか扶余族がもたらしたということです。ただ大和朝廷が半島に出兵したというのは間違いで、そもそも日本領だった半島南部にも軍を置いていたというのが実情でしょう。おそらく日本から連れてきた兵士と半島の和人から徴兵した兵士が半々くらいはいたと想像しています。大和朝廷が半島南部の領地に国司を派遣した記述もありますし、半島南部で見つかっている日本式前方後円墳は彼らの墓だろうと思います。韓国の学者は火病して否定してますがね(苦笑)。

 ところで皆さんは、関東から東北、北海道にかけて蝦夷(えぞ、えみし)と呼ばれる異民族がいて大和朝廷に抵抗した歴史を御存じでしょう。彼らを縄文人の末裔とするかもともと住んでいた古モンゴロイドの異民族とするか私はこの方面の知識が疎いので何とも言えませんが、アテルイ(阿弖流爲)の乱など彼らの抵抗の歴史を調べると、蝦夷が巧みに騎馬を操っている事に気づかれると思います。

 馬は軍事上重要ですので、もし大和朝廷が半島から導入したのならそれを独占し、異民族である蝦夷への流出は極力控えるはずだと考えました。少数が流出するのは仕方ないにしてもこれから征服する勢力が馬を持つと、朝廷軍が苦戦するからです。が、現実には蝦夷の方が馬の数が多く巧みに操って朝廷軍を翻弄します。どういう事か考えたんですが、これ以降は何ら考古学的裏付けはなく単なる私の想像だと思って読み進めてください。

 半島伝播の馬の他に、東北に直接馬がもたらされたのではないかという考察です。調べてみると東北大学教授高橋富雄氏も北方伝来説を唱えておられるそうです。私は、古代史に出てくる粛慎(しゅくしん、みしはせ)という異民族が鍵ではないかと睨んでいます。粛慎は日本では謎の民族だと言われますが、北海道を中心に東北にも来たらしく、阿倍比羅夫とも戦っています。

 支那の文献にも粛慎は登場し、これらの情報を総合するとツングース系の狩猟民族で同時に海洋民族だったと思われます。ところでツングース民族と言えば扶余族に代表される通り騎馬民族としても有名で粛慎も騎馬の技術があっただろう事は容易に想像できます。この粛慎が東北地方に馬をもたらし蝦夷がそれを活用したのではないでしょうか。関東や東北に有力な牧がいくつもあった事でも分かりますし、東北が名馬の産地だったのはもともと馬の育成が盛んな土地だったからでしょう。

 問題は、古代の船で500kgはあるであろう馬を運べたかという事です。調べたところ、日本列島にはBC3000年頃から丸木舟があったそうなのです。縄文人自体も海洋民族だったと言われます。丸木舟ではさすがに無理っぽいですが、丸木舟を何艘か並べその上に舷側板を乗せて一種の大型筏(いかだ)にする技術があったそうなのです。これだと何頭も馬を運べますし、遠洋航海もできますね。

 粛慎の故地は現在の沿海州から満洲東部にかけて。そこから大型筏で北海道や東北に達したのでしょう。あるいは、沿海州から樺太、北海道というルートなら海を長く渡る必要もありませんしより現実的です。粛慎と交易する過程で蝦夷も馬を取り入れたのでしょう。ということで、馬は半島経由のほかに東北にも直接大陸から渡ってきたと私は結論付けますが、皆さんはどう思われますか?