鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

上杉謙信の経済力

イメージ 1

 きっかけは飛騨の姉小路氏に関する記事でした。そこから「飛騨は米の生産高は低いけど金山収入はけっこうあるよ」って話に発展して、「だったら当時の金銀山ってどれくらい産出してたの?」という話題になりました。

 そして「越後の上杉謙信佐渡金山もってたから金山収入けっこうあったよね?」「いや上杉家が佐渡を領有したのは景勝の末期だから、謙信時代には佐渡金山と関係なかった」(←いまココ)

 という展開があっての本記事でございます(爆)。まあブログ記事のわらしべ長者ですな(苦笑)。



 「甲斐の虎」武田信玄と並び称される「越後の龍」上杉謙信甲州の金山からとれる豊富な黄金によって潤っていた武田家に、上杉家はいったい何を持って対抗していたのか?




 一般のイメージと違い佐渡の金山収入は謙信時代にはありません。金山でないとするともともと越後の石高が高かったのか?調べてみるとそうでもないようです。太閤検地で越後の石高は39万石。

 まあこの太閤検地の資料は私に言わせるとあまり信用できないのですが…(苦笑)。といいますのも九州で一番石高が高いのが豊後の国で41万石もあります。地図で見ると平野が多い筑前肥前、肥後がそろって30万石台なのに、山がちの豊後がなぜ41万石???


 寛永期の検地では豊後27万石。落ちとるやんけ!(怒)これが実高っぽいですな。しかし越後は39万石で変わらないので一応信用できる数字としましょう。


 そういえばある資料によると戦国時代までの越後は深田が多くて米作りにあまり適していなかったそうです。越後が米どころと呼ばれるようになったのは土地改良が進んだ江戸中期以降だとか。


 とすれば上杉軍団を経済面で支えたのは何だったのか?




 突然ですが、青苧(あおそ)という植物があります。別名カラムシとも呼ばれるのですが、茎の皮から衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れるため農作物として栽培されました。この青苧を使って作られた織物は、生地が細かく縮むことから縮(ちぢみ)と呼ばれました。

 縮は、裃などの材料として重宝されたため各地で栽培されます。実は越後はこの青苧、そしてそれをもとに生産された越後縮の一大生産地だったのです。


 薩摩上布などと並ぶ上布である越後縮(越後上布)は中世から江戸期にかけて武家や貴族を中心に高級な夏生地としてもてはやされます。


 これに目を付けたのが越後上杉氏でした。青苧や越後縮の生産を奨励し、座を設けて専売制とします。そして直江津、柏崎から日本海交易路を通じて京を中心に全国に出荷しました。青苧交易にどれくらいの収入があったかというと、入港税だけで年4万貫(=約4万両)とされますから驚かされます。


 ある資料では青苧交易は全体で3~40万石の収益があったとされるくらいですが、さすがにこれは誇張がすぎるでしょう。ただ少なくとも10万石、へたしたら15万石くらいの収益はあったように思えます。


 石高が39万石ですから、その4割近い莫大な金銭収入があったわけです。金山がなくともこれなら武田や北条と互角に戦えますよね。さらに蝋や塩の交易でも潤っていましたから、越後上杉家は戦国大名のうちでもかなり裕福な部類に入っていたのでしょう。


 謙信が信玄に塩を贈った美談は、もしかしたら商売のチャンスと見た越後商人に謙信が突き上げを食らった結果だったのかもしれません。謙信ファンには申し訳ないですが…。


 そういえば謙信は義のために戦し、領土をほとんど取っていません。普通ならこのような軍は経済的に破綻するものですが、上杉家にあまりそのような傾向が見えないのは、領土を奪わなくても賄えるだけの経済力を持っていたからかもしれません。


 またまた謙信ファンには申し訳ないですが、いわば金持ちの道楽として戦争をしていたという穿った見方もできます。




 経済面からみた戦国史、面白いですね。次は勘合貿易大内氏の利益など調べてみましょうかね?(笑)