鳳山雑記帳はてなブログ

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豊後国石高表

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 またまた歴史マニアしかついてこれない話題です(笑)。仙台藩領の各郡石高を調べたので他の地方はどうだったか調べてみました。といってもなかなか資料が見つからず、ネットでようやく発見したのが豊後国(現大分県の大部分)の石高です。

 ただ私の望んでいた郡ごとの石高ではなく、江戸期(おそらく中期)の各藩の石高です。一応合計すると豊後国の総石高が分かるはず。

 豊後国太閤検地で41万石、寛永検地では27万石と下がっている珍しいケースなので取り上げてみました。石高というのは大名の軍役、格式を決める重要なものですが、一般に言われる石高は表高と言って公式なもの。一方、各大名が灌漑・干拓した新田開発分は内高といって通常は表高より高くなります。

 豊後国だけが太閤検地より寛永検地で大きく下がっているか考えると、おそらく一国支配の大名(大友義統)と小藩に分裂した後軍役を軽減した分の差だと思います。あるいは太閤検地の数字が間違いだった可能性も高いですが…。

 それが江戸中期になると開発が進み、41万石と太閤検地の数字に近くなってきています。内高はさらに上がっているでしょう。わかる範囲だと豊後岡藩(竹田城で有名ですね)は表高7万石に対し内高9万9千石あります。山がちで平野が少ない豊後だとあんまり伸びしろなかったのかな?(苦笑)津軽藩の表高10万石内高34万石と比べると月とすっぽんですわな。


 ちなみに、調査の過程で見つけたネタだと水戸黄門で有名な水戸徳川家は表高28万石に対し内高が下回っていたらしいです。御三家だからって見栄張りすぎ(爆)。おかげで会津松平家は本当は表高28万石あったのに遠慮して23万石にしたそうですよ。