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斯波家長のこと

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 斯波氏関連三本目の記事です。思い起こせば同じ一族で三本以上記事を書いたのは甲斐武田、肥前竜造寺に続いて三回目。それだけ思い入れが強いということかもしれません。


 斯波家長(1321年~1338年)は、南北朝時代の武将で将軍家に匹敵する家格とも言われた足利一族の重鎮、斯波(足利)高経の長子です。前の記事で庶長子と書いたのですが、どうもこの当時は家長が嫡子であった可能性が高いと分かり修正しました。

 といいますのも斯波宗家(武衛家)の家督を高経の四男義将(1350年~1410年)が継いでいたためです。生年を考えると高経16歳の時の子が家長、晩年の子が義将であきらかに異母兄弟です。


 おそらく家長が早死にしなければ、彼が武衛家の家督を継いだ可能性が高いと考えます。


 それにしても家長は、わずか17歳で死んでいます。現代ではまだ高校生といってもいい生涯を短くも激しく生きたのが彼でした。


 南北朝争乱時、宮方が1333年北畠顕家鎮守府将軍として奥州に下向させると、その対抗手段として足利方でも誰かを奥州へ派遣しなければいけなくなりました。


 その条件は、足利一族であること、そして奥州との繋がりのある者でした。白羽の矢が立ったのはもともと奥州斯波郡を本貫の地とする斯波氏の一門で、当主高経の嫡男、家長でした。時に1335年、わずか15歳の少年でした。顕家が下向したのが16歳、家長が15歳、これを戦国の世の習いと見るのか悲劇と見るのか?


 ともかく少年たちは、自分に与えられた役割を果たすために必死で戦い続けました。15歳の少年は奥州管領(のちに奥州探題に発展)という重職に任ぜられます。もちろん一人だけではなくこれを補佐する宿老たちが多く付けられたことは想像に難くありません。


 家長は、若年ながら足利一族の名門斯波氏の御曹司ということでそれなりの権威を発揮したそうです。近隣の武士団がこぞって味方についたそうですからこの時代の血の高貴さは絶大な力を発揮しました。


 同じく北畠顕家多賀城(宮城県)を中心に宮方を纏め大きな勢力となります。1335年足利尊氏が鎌倉から上洛すると奥州で兵を挙げた顕家は伊達、南部などの有力武士団を率いてこれを追撃、京都を奪還し尊氏を九州に追い落とします。


 一方、少し遅れて家長も足利方の兵を率いて顕家軍を追いますが、間に合わず家長は鎌倉に止まる決断をします。鎌倉には尊氏の嫡男義詮がおり、これを奉じて東国を纏める必要があったためです。

 ただこの決断はのちに悲劇へとつながりました。


 九州で勢力を盛り返した尊氏は再び上洛の軍を起こし湊川で宮方の主力を撃破します。この前に北畠顕家は、再び東国で盛り返してきた足利方を抑えるため奥州へ戻っていました。


 家長は、奥州とともに関東も所管とする鎌倉府執事(のちの関東管領)となります。陸奥守にも任じられ実質的な東国における足利方の旗頭となったのです。


 家長率いる足利方は、宮方を圧迫しついには多賀城から顕家を追い出すことに成功します。顕家は南陸奥(現福島県)の霊山(りょうぜん)にこもって抵抗しました。

 そこへ吉野の南朝から再び上洛命令がきます。顕家も奥州における勢力拡大を諦め、ほぼ全軍を挙げて上洛の途につきました。1338年のことです。

 初めは小勢の北畠軍でしたが、一度は足利尊氏を破っているという武功から付き従う武士が数多くいました。太平記ではそれが十万騎になったといいますが、もとよりこれは誇張でしょう。それでも数万の大軍に膨れ上がったのは間違いないと思います。


 北畠軍の最初の目標は鎌倉でした。尊氏の嫡子義詮と東国における反宮方の司令塔ともいうべき家長を放置しておくのは危険だったからです。前回で懲りていた顕家は本格的に鎌倉攻略を目指し南下します。



 このとき鎌倉には上杉、桃井などの軍もいました。家長はこれら足利方の軍勢を率い出陣します。利根川の線で防ごうと激しく戦いますが、やはり軍事的才能は顕家の方が上だったのでしょう。敗北した足利方は鎌倉に退き杉本城に籠城します。


 おそらくこのとき、家長は義詮や他の足利方を逃がし、斯波氏の手勢だけで籠ったようです。鎌倉に入った北畠軍は杉本城を激しく攻撃します。戦いは3日間続けられますが多勢に無勢、家長は最後まで付き従った郎党とともに自刃して果てます。わずか17歳の生涯でした。



 家長の子孫は本拠地陸奥斯波郡に戻り高水寺城に拠って土着します。一説では若年で死んだ家長の実子ではなく養子が後を継いだとも言われていますが、家長自身、高経の16歳の時の子供なので実子という線も捨てきれません。現在の感覚で考えるといけないのでしょう。


 志和御所と尊崇され室町時代を通じて陸奥中央部に君臨しますが、最後は南部氏に滅ぼされます。ちなみに北畠顕家の子孫も浪岡御所として奥州に残りますから歴史は面白いのです。


 どちらも嫡男の子孫でありながら家督は弟の家系(武衛家、伊勢国司北畠氏)に持って行かれ傍系扱い、最後は南部氏、津軽氏に滅ぼされるという共通点を持ちます。


 家長と顕家はあの世からどんな目で見ていたのでしょう?感慨深いものがあります。これが歴史の魅力なのかもしれませんね。