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京極佐々木氏   佐々木道誉の子孫たち

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 

 南北朝時代、強烈な個性で時代を駆け抜けた婆沙羅大名佐々木道誉(高氏)。独特の美意識と既成の権威にとらわれない破天荒な生き方で太平記でも特に深く印象に残っています。

 しかし、その子孫は彼のようには目立った活躍をせずひっそりと歴史に埋もれた生き方をしたように思います。イメージでは六角佐々木氏が道誉の子孫っぽいですが(苦笑)、実際は地味な方の京極氏が子孫でした。


 京極氏は、近江源氏佐々木氏から興ります。鎌倉初期の近江守護佐々木信綱には四人の子供がいました。長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信(この系統から朽木氏が出た)は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となります。

 そして四男の氏信が京極氏の祖です。生母は時の執権北条義時の娘。そのためかどうかは知りませんが父信綱が死ぬと江北六郡(高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智)を受け継ぎ、京の京極高辻に屋敷があったことから京極氏と呼ばれます。


 ただ家督は兄泰綱が継ぎ近江守護にもなりますので、京極氏の家系は潜在的に宗家の六角氏に不満を持ち続けたように思います。石高も織豊期の数字では江北が20万石前後、江南が50万石余りと経済的にも大差がついていました。

 氏信から数えて四代後が佐々木高氏です。のち出家して道誉と号するので以後この名前で呼びます。道誉は早くから足利尊氏と通じ、武家方の有力武士として南北朝時代を戦い抜きます。


 その功績から幕府の重要な役職侍所の所司(長官)に就任できる四職(他は赤松、山名、一色)の一角になれる家系にのし上がりました。


 ただ、足利幕府も近江源氏佐々木氏の嫡流である六角氏を粗略にはできず、近江の守護は南北に分割され道誉が得たのはもともとの所領である北半分だけでした。他に得たのは飛騨、出雲などですが、実質的に飛騨国国司姉小路氏の勢力圏でしたので浸透できず、出雲だけが新たに得た永続的な新領土といえました。


 幕府内での地位こそ得ましたが、嫡流六角氏と違って実力を得たとは言い難いのが京極氏です。六角氏が九代将軍義尚の討伐を退け実質的に敗死に追い込んだほどの力はついに持つことはできませんでした。

 戦国期に入ると、頼みの綱ともいうべき出雲は守護代尼子氏(これも佐々木一族)に奪われ、本国北近江も室町守護大名家にお決まりの家督相続をめぐる一族の争いで衰え、その一方を支援した国人領主浅井亮政に事実上乗っ取られてしまいます。

 京極氏は、浅井氏の傀儡、名目上の北近江守護として細々と続きますが、転機は浅井氏の滅亡でした。京極高吉の子、高次は織田家に仕えることとなります。

 家格ではなく実力がものをいう戦国時代において、頼りなくはあるものの高次はそこそこの戦功をあげて生き残ります。一時は本能寺の変明智方に付くという失敗はありましたが、姉(松の丸殿)が豊臣秀吉の側室になったことから運が上向き始めます。正室にも淀殿の妹お初(常高院)を迎えいわば閨閥で出世したような形となりました。


 高次は九州攻めの功により近江高島郡に一万石を与えられ、念願の大名に復帰します。一時は没落し滅亡の危機にあったのですから本人も感慨無量だったでしょう。


 天正18年(1590年)小田原攻めの功により八幡山城二万八千石、翌年には、従五位下侍従に叙せられます。文禄4年(1595年)には大津六万石へと加増、左近衛少将から翌年には従三位参議に任じられます。


 家格的にはやっと先祖の京極氏に戻ったと言えるでしょう。官位はそれ以上か?


 実力ではなく、閨閥で出世した高次を世間の人は蛍大名と揶揄しましたが関ヶ原の合戦時には困難な大津籠城戦を戦い抜いて、最後は降伏するものの武門としての意地を見せました。

 戦後は、この功により若狭一国八万五千石に加増転封され以後京極氏は紆余曲折はあったものの讃岐丸亀藩六万石→五万一千石として幕末まで続きます。


 一度滅亡した守護大名家から近世大名家として再興した数少ない例の一つでした。