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北畠親房と常陸の南北朝Ⅱ   甕(みか)ノ原合戦

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 1333年5月鎌倉幕府滅亡、1335年7月中先代の乱(北条得宗家【嫡流】最後の当主高時の遺児時行の起こした乱)という関東の戦乱は、ほぼ上野、武蔵、相模という関東の南北を結ぶ線を中心に展開しました。そこから外れる常陸や下野はほとんど戦禍を受けていません。

 中先代の乱を鎮圧した足利尊氏がそのまま鎌倉に居座り建武政権に反旗を翻すと同年12月には新田義貞率いる討伐軍を箱根竹ノ下合戦で撃破、足利軍は勢いを駆ってそのまま上洛します。建武政権下で義良(よしなが)親王(のちの後村上天皇)を奉じ陸奥守、鎮守府将軍として陸奥多賀城に赴任していた北畠顕家(1318年~1338年)は、奥羽の軍勢を募り尊氏が留守を任せた嫡子の義詮(よしあきら、二代将軍)と弟直義の守る鎌倉を背後から攻めるために挙兵しました。

 顕家率いる奥州勢は勿来(なこそ)の関(福島県いわき市)を通って海沿いのルートで関東に雪崩れ込んだため、北関東の玄関口常陸は初めて本格的戦闘に巻き込まれる事になりました。

 鎌倉府を守っていた足利直義は、常陸守護佐竹貞義(1287年~1352年)にこれを防ぐよう命じます。佐竹氏は頼朝に反抗し鎌倉時代は冷遇されていただけに今回の戦いを絶好の機会と捉えていました。もともと常陸奥七郡に地盤を持つとともに関東各地や南陸奥にまで一族が広がっていた佐竹氏は、この戦いで功績を上げ地位を盤石にすべく張り切ります。各地から一族郎党を集め中には南陸奥からも参加していたそうです。これを見ても分かる通り奥州は南朝一色ではありませんでした。逆に関東からも北畠軍に参加した者がいたそうですから、勢力は錯綜していました。

 ちなみに、この時佐竹軍に参加した奥州武士で名前が分かっている一人は好島(よしま)荘預所伊賀左衛門三郎盛光です。佐竹勢の総数は分かりませんがおそらく二万はくだらなかったろうと思います。一方、北畠勢も二万程度だったと推定されます。なぜなら大軍であったら堂々と白河の関から南下し下野・武蔵・相模というコースを辿るはずだからです。沿海ルートを選択したのは、敵を前方と右翼だけに限定するためだろうと推定します。

 佐竹勢は、多賀山地と太平洋に挟まれた隘路石名坂の出口小沢野(常陸太田市)に布陣します。南下してきた北畠勢がこの地に至ったのは1335年12月も暮れようとしている時でした。両軍は泉が森から久慈浜に至る海岸段丘面上の原野甕(みか)ノ原で激突します。甕ノ原のすぐ南は久慈川まで湿地帯が続き道は石名坂に続く多賀山地南麓を通る一本のみ。地の利に明るい佐竹氏は絶好の迎撃地点を選んだ事になります。

 緒戦は長途の遠征で疲れの見える北畠軍を休養十分で待ち構えていた佐竹軍が一方的に押しまくったそうです。このまま佐竹軍の勝利が見え始めたその時でした。常陸の国人で那珂川中流の在地武士那珂通辰(みちとき)が、在地の反佐竹勢力を集め突如背後から襲いかかったのです。おそらく彼らは心からの宮方ではなかったでしょう。想像ですが、鎌倉幕府に与し足利政権下で冷や飯を食っていた連中だと思います。佐竹氏がいちはやく足利方に付き優遇されたのと逆に親鎌倉幕府勢力は冷遇されていたはずです。その恨みがこの時爆発したのでしょう。

 前方に注意を向けていた佐竹軍の背後はがら空きでした。前後から敵に攻め立てられた佐竹軍は一気に優勢から劣勢に転じます。が、佐竹貞義も流石でした。陣容を整えると一時後退し再び反撃に転じます。ところが戦いというのは勢いです。戦闘の主導権を奪われれば再び取り戻すのは至難の業でした。

 結局佐竹軍は、勢いを増した北畠軍に敗北します。大きな損害を出しますが壊滅はせず地の利に明るい事を良い事に各々落ちて行きました。鎌倉幕府草創期に頼朝の追討軍に敗れた時と同様、こういった歴史ある一族は意外としぶといものです。また、上洛を急ぐ北畠軍も佐竹軍の残党を追撃する余裕はありませんでした。北畠軍は風のように常陸を駆け抜けます。

 顕家は足利直義を鎌倉に破ると敗走する直義を追って上洛、尊氏・直義兄弟はたまらず九州に落ちのびました。しかし、今度は九州の武士団を纏めた足利尊氏の逆襲が始まるのです。わずか数年のめまぐるしい歴史の動きでした。

 常陸では、有力な北朝方佐竹氏の没落で小田、真壁、笠間、下妻、関という南朝方が優勢になります。この顔ぶれを見ても分かる通り最初からの南朝方というよりはもともと鎌倉方で足利政権下では冷や飯を食っていた連中でした。

 次回はいよいよ、本シリーズの本題北畠親房常陸下向と劣勢になった佐竹氏の戦いを描きます。