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中世の黄昏   「ブルゴーニュ公国四代」

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 ワインで有名なブルゴーニュ地方。かって中世のある時期、フランスの一諸侯でありながらベルギー・オランダにまたがる広大な領土をもち、あたかも独立国の体をなしていたブルゴーニュ公国がありました。

 わずか4代110年ちょっとの歴史でしたが、その領土である豊かなネーデルラントは女系からハプスブルグ家に受け継がれさらにはスペイン・ハプスブルグ家領となった最後までフランスの脅威であり続けました。



 まさに歴史の徒花(あだばな)ともいえるブルゴーニュ公国ですが、その歴史は波乱万丈ともいえるものでした。最近私は堀越孝一氏の記した「ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史」なる本を読み非常に感銘を受けたので、その歴史の一端をご紹介しようと思います。



 最初に家系図を見てください。複雑で入り組んでいるのでわからなくなると思い、理解の一助になればと自作しました。(とっても苦労しました・爆)


 発端は百年戦争のときです。ヴァロワ朝2代王ジャン2世の末子フィリップがポワティエの戦いで抜群の戦功をあげ、断絶していたカペー家支流のブルゴーニュ侯領(フランス中東部)を下賜されたのが始まりでした。


 以後フィリップはヴァロワ王家の有力な親藩として続くはずでしたが、その結婚によって運命を大きく動かされます。1384年彼が結婚したのはフランス西北部からベルギーまでの広大な領地をもつフランドル女伯マルグリットでした。

 結婚によって手に入れたフランドル伯領は、当時ヨーロッパで最も先進的な地方で商工業の発達したいわばドル箱ともいえる地方でした。


 以後ブルゴーニュ家は、フランス国内では王家の親藩、対外的には豊かなフランドルの領主(支配地はフランスから神聖ローマ帝国にまたがっていた)と鵺のような存在となるのです。


 ブルゴーニュ家がおとなしくフランス王家に従っていれば何の問題も起きなかったのですが、時の国王シャルル6世が発狂したことにより運命は大きく動き始めます。



 発狂した国王の摂政の地位を巡って同じヴァロワ王家の一族であるオルレアン公家と対立し、内戦に及ぶまでになりました。ブルゴーニュ派がオルレアン公ルイを暗殺したことにより、その報復としてブルゴーニュ公ジャンがオルレアン派(アルマニャック派)に暗殺されたのです。


 どっちもどっちですが、これによりブルゴーニュ派はイングランドと結びフランス(王太子シャルルの勢力)と敵対することになります。

 時は百年戦争の真っただ中でした。イングランドブルゴーニュ連合軍はまたたくまに北フランスを席巻、王太子シャルルは南フランスに逃れ逼塞せざるをえませんでした。


 しかし王太子を擁するオルレアン派の底力は絶大でした。ジャンヌ・ダルクという奇跡までも利用し次第に盛り返し始めます。有名なオルレアン攻防戦、ランスでの戴冠式で政治的には有利な地歩を固め始めます。



 一方、イングランドの現地司令官、摂政ベッドフォード公ジョンはブルゴーニュ公ジャンの娘婿で当代フィリップ2世善良公の義兄弟でしたから、義兄の援軍を待ちわびていました。

 ブルゴーニュの援軍が加われば劣勢を挽回できると踏んだからです。しかしフィリップは、その時自家の勢力拡大に躍起になっていました。泥沼のフランス戦線に介入するよりネーデルラント征服の方が容易だと踏んでいたのです。


 この状況を冷静に見ていたシャルル7世(戴冠して王になっていた)は、フィリップに接近します。連合からブルゴーニュを脱落させれば戦争の勝利が決定的になるからです。


 密かに外交交渉を始めていたシャルルは、主戦論者のジャンヌ・ダルクを切り捨て、そのためにジャンヌはブルゴーニュ軍に捕えられます。フィリップも厄介事に巻き込まれるのはごめんだとばかり彼女をさっさとイングランドに売り渡しました。


 このためにブルゴーニュ公国はフランスの裏切り者として現在でもあまり評判はよくありませんが、ネーデルラントに領土を拡大し事実上独立国となっていたので、この評価は少々酷かもしれません。


 ともかくフランスとブルゴーニュは、1435年アラスにおいて歴史的和解を果たします。イングランドとの同盟を破棄しフランスと同盟を結ぶこととなりました。


 これによりフランスはブルゴーニュの中立を勝ち取り、ブルゴーニュもまたネーデルラント征服に心おきなく動けるようになりました。


 フィリップ善良公は、意識の下でフランスの廷臣、親藩としての自覚を持っていたのでしょう。実際、後年になりますが父シャルル7世と対立し亡命してきた王太子ルイを丁重にもてなしています。これが善良公といわれる所以だったのかもしれません。


 ただ、堀越孝一さんに言わせるともともとブルゴーニュ家の本領であるブルゴーニュ公領の騎士たちが、敵であるイングランドに与することを嫌ったということも背景にあったらしいのです。



 背後の安全を確保したフィリップ善良公は、本拠をブルゴーニュからブリュッセルに移しています。おそらく税収も8~9割はフランドル、ネーデルラント地方が占めていたはずで当然の処置だったのかもしれませんが、ブルゴーニュ公国は次第に脱フランスの道を歩み始めます。


 3代フィリップ善良公の治世で忘れてならないのは、有名な「金羊毛騎士団」を創設したことです。もともとはトルコへの十字軍を念頭に置いての結成でしたが、それが沙汰やみになり事実上ブルゴーニュの軍事力の中心となっていきました。またフィリップの治世は、豊かな経済力を背景にフランドル派絵画や、ネーデルラント楽派の音楽が栄え文化が爛熟します。(北方ルネッサンス


 1467年、フィリップは亡くなりました。後を継いだのは長男シャルル。突進公とも無鉄砲公ともあだ名された彼の代がブルゴーニュ公国の最後の歴史でした。


 フランスに遠慮し、できるだけ波風を立てずヴァロワ王家の親藩足らんと志していた父と違い、シャルルはあきらかに独立国家の樹立を目指していました。


 所領の大半はすでに神聖ローマ帝国の領域に含まれるようになっていました。シャルルは飛び地になっていた本領ブルゴーニュ公領とネーデルラントを連結させることに生涯を費やします。神聖ローマ帝国内でも選帝侯に匹敵、あるいはそれ以上の権勢を誇っていました。


 しかし、侵略される側のライン下流の諸侯たちが連合してこれに対抗するようになると苦戦します。さらにはフランス国内のブルゴーニュ領を狙うフランス王ルイ11世の暗躍もありました。商人王ともあだ名されるルイは、たしかに計算高く外交・謀略の限りを尽くしてシャルルを追い詰めていきます。

 ルイは、なんとイングランドと結ぶことでブルゴーニュ公国の孤立を図ります。宿敵同士の和解という離れ業を見せられたシャルルでしたが、自分の危機に気付いていたかどうか?戦争馬鹿で連年の遠征でさしもの莫大な国庫も尽き始めていました。


 そして、1477年ナンシーにおいて下流諸侯連合の雇ったスイス人傭兵隊に敗れ戦死してしまいます。


 あとに残されたのは一人娘マリーのみ。公国は崩壊しフランス国内のブルゴーニュ領はルイ11世に接収されました。しかしネーデルラントはシャルル生前の約束で神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とマリーが結婚することによって保たれます。


 二人の間に生まれたフィリップ美公が1496年にカスティーリャ女王イサベル1世アラゴン王フェルナンド2世の娘フアナと結婚したことにより、ネーデルラントは息子カール5世(スペイン王ではカルロス1世)に受け継がれました。


 そして豊かな経済力をもったネーデルラントは、フランスとの係争の地となり最後は独立してオランダ、ベルギーとなっていくのです。