ハプスブルク家の初代神聖ローマ皇帝ルドルフ1世が没した後、ドイツ諸侯はボヘミア王オタカル2世に代わってハプスブルクがドイツの覇権を握るのを嫌い、勢力均衡の観点から再び小領主のナッサウ伯アドルフをドイツ王に選出しました。
ところがアドルフは帝国の統治に失敗し王位から追放されます。再び行われた国王選挙でようやくルドルフの息子アルブレヒト1世の即位が認められました(在位1298年~1308年)。しかしアルブレヒト1世は1308年甥のヨーハン・パリツィーダによって暗殺されます。
以後ハプスブルク家はドイツ王(=神聖ローマ皇帝)の地位から遠ざかりました。ハプスブルク家がようやく神聖ローマ皇帝に返り咲いたのは1408年に即位したアルブレヒト2世からでした。これ以後はドイツ王位を独占し20世紀にオーストリア・ハンガリー帝国が滅亡するまで続きます。
前置きが長くなりましたが、本編の主人公はアルブレヒト2世の甥にあたるマクシミリアン1世(在位1493年~1519年)です。と言っても彼が特段政治的手腕に優れていたわけでも軍事的才能があったわけでもありません。皇帝としては文化を愛好し保護しただけの平凡な君主でした。
では何故彼を取り上げたかというと、その婚姻が大きく世界史を動かしたからです。
過去記事の復習の意味も込めてブルゴーニュー公国の歴史を振り返ってみましょう。ブルゴーニュ公国はフランス・ヴァロワ朝の一族でありながらフランス外のフランドル、ネーデルラントに領地を獲得したため次第に自立し最後は独立国のようになります。ちなみにブルゴーニュとはブルグントのフランス語訛り。もともとは異民族ブルグント族の土地です。
ブルゴーニュ公国4代シャルル突進公(在位1467年~1477年)には残念なことに後継ぎの男子がいませんでした。ただ一人の子供は女子のマリーのみ。シャルルは自領の大半が神聖ローマ帝国に含まれる事から次第に自分も神聖ローマ皇帝になれるのではないか?という野望を抱きます。
一方、ハプスブルク家側としても言う事を聞かないドイツ選帝侯たちに対抗するため、彼らに匹敵する大勢力であったブルゴーニュ公と結ぶのは願ってもない好機でした。両者の利害は一致しマクシミリアンとマリーの婚約は成立します。
後に残されたのは一人娘マリーのみ。女一人で激動の国際情勢に当たるわけには行きませんから生前の約束通り1477年ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚します。こうしてマクシミリアンは労せずして豊かな商業先進地帯であったネーデルラント、フランドル地方を得ました。
1493年神聖ローマ皇帝に即位した後もマクシミリアンは豊かなフランドルに住み続けます。二人の間にはフリップ美公、マルグレットという二人の子供が生まれました。
マクシミリアンが幸運だったのは、息子フィリップの妻に先ごろレコンキスタでイベリア半島を統一したばかりのスペインのフェルナンド5世(アラゴン王としては2世)、イサベル1世(カスティリア女王)の一人娘ファナを迎えた事でした。当然両王の死後スペインも自分たちの子孫の物になるという計算があったのは確かでしょう。期待していた息子フィリップ美公は1506年早世しますがすでにフィリップはスペイン王女ファナと結婚した事でブルゴーニュ公・スペイン王の称号を得ていましたから、マクシミリアンが1519年に没しても、孫カールはブルゴーニュ公とスペイン王位は獲得してていた事になります。