鳳山雑記帳はてなブログ

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硫黄島要塞

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 各国の要塞を紹介したので我が日本のものをと考えたんですが悩みました。防御力から言ったらソ満国境にあった虎頭要塞など筆頭なのですが何しろ資料が少なく画像も見つからなかったため、一般にも有名になった硫黄島の要塞を紹介したいと思います。

小笠原諸島南端の火山島がなぜ戦場になったかというと、サイパンから日本本土空襲をするB-29が被弾した際の不時着飛行場と護衛戦闘機の発着場として米軍が必要としたからなんです。しかも日本にとっても本土空襲に向かう米爆撃編隊を索敵する警戒拠点でもありましたから、これを撃滅する意味もあったんですね。


 日本も硫黄島を重視し、小笠原兵団を編成し硫黄島の要塞工事を始めました。主力部隊は第109師団。これにいくつかの砲兵部隊と海軍陸戦隊が加わりました。兵団長は映画「硫黄島からの手紙」でも有名な栗林忠道中将(師団長兼任)です。


 戦時急増要塞ながらなかなかの砲兵火力を有していました。一覧を上げると

 ・320ミリ臼砲12門
 ・150ミリ中迫撃砲と81ミリ軽迫撃砲65門
 ・80ミリ以上の沿岸砲33門
 ・75ミリ以上の高射砲94門
 ・20ミリおよび25ミリ対空機関砲200門以上
 ・37ミリおよび47ミリ速射砲69門
 ・噴進砲(ロケット砲)70門


 それにバロン西(西竹一中佐)率いる戦車第26連隊(戦車28両)と海軍重砲隊を加え総兵力は21000名。


 栗林兵団長の構想では、南西部摺鉢山の砲台と飛行場のある東北部の元山台地の間の海岸地帯に敵を誘い込み側面からの射撃で殲滅するというものでした。そのためには両陣地を結ぶ連絡地下道の建設は急務でしたが、硫黄ガスが噴出し地熱のために工事は難航し、結局完成しませんでした。


 本来なら島嶼防衛は水際撃滅がベストでしたが、制海権・制空権を敵に奪われた現状ではいったん敵に上陸を許し内陸に引き入れて攻撃するという栗林中将の取った持久抵抗戦術は現実的選択だったと思います。

 

 1945年2月16日、後方支援も含めると10万にもなるアメリカの大軍が、この小さな島に押し寄せます。総司令官は第51任務部隊のリッチモンドターナー海軍中将。上陸部隊はシュミット少将指揮下の第5水陸両用軍団(海兵隊第3、第4、第5海兵師団基幹)。

 まず米軍はマリアナ諸島から発進した空軍機と空母艦載機の空爆と、艦船による艦砲射撃を数日間加えます。摺鉢山の地形が変わったとまで言われた攻撃で日本軍はほとんど全滅したかと思われたくらいです。しかし、入念な工事を施した地下陣地に籠る日本軍はほとんど被害を受けていませんでした。


 ただ米軍の攻撃に耐えかね、摺鉢山の砲台が反撃したためその位置が露見し戦艦ネバタの艦砲射撃でほとんど壊滅したのが残念でした。このエピソードは映画でも紹介されましたね。


 上陸当初、抵抗がほとんどなく「少し早いエイプリルフールか?」と訝った米兵でしたがそれが間違いだったと気付くのに時間はかかりませんでした。


 地区ごとに座標を決めて正確に撃ち込んでくる日本軍の砲撃で海兵隊は甚大な被害を受けます。上陸した19日だけで戦死501名、戦傷死47名、負傷1755名という損害を出しました。

 栗林中将は、無益なバンザイ突撃を避け可能な限り敵を引き付け攻撃を加えるよう部隊に命じていました。このため海兵隊の進撃は遅々として進まず、多くの損害を出し続けます。あまりに激しい日本軍の攻撃に発狂する兵士も出たくらいです。


 しかし3倍以上の兵力差は如何ともしがたく、日本軍は徐々に追い詰められていきます。16日、栗林中将は東京の大本営へ訣別電報を送りました。17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達します。


 日本軍は栗林中将以下ほとんどの兵力が戦死。生き残りは1000人にも満たない少なさでした。しかし米軍はそれを上回る死傷者28000名(戦死6821名、戦傷21865名)を出します。硫黄島の戦いは米軍の損害が日本軍を上回った稀有の戦闘でした。

 硫黄島は日本軍将兵が、名将栗林中将の指揮のもと日本本土を守るために超人的な働きをした戦いだったと言えます。この尊い犠牲者を思うとき、はたして今の日本人は恥ずかしくないのかと反省してしまいます。


 靖国神社を蔑にする勢力がありますが、この人たちははたして戦争で散って行った英霊たちをどう思っているのか?ときつく問いただしたいですね。日本人である以上、この尊き犠牲者の皆様に感謝をささげ、毅然として生きていくべきだと改めて痛感した次第です。