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日本の戦争14  硫黄島の戦い1945年2月~3月

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 マリアナ諸島失陥後、サイパンテニアンから飛来したボーイングB‐29重爆撃機による日本初空襲は1944年11月24日でした。以後、終戦まで北海道を除く日本本土は米軍の無差別爆撃の餌食となります。軍事施設だけでなく、多くの民間人を対象とした無差別殺人(当然原爆投下も含む)はもちろん国際法違反です。しかし残念ながら世界は勝者を裁くことはできませんでした。非人道的行為を戦後処罰されたのは例外なく敗者であり、それもかなりの部分が無実だったのです。この無差別大量虐殺を指導したのは米空軍のカーチス・ルメイ少将。すべてをルメイの責任に帰すことはできませんし悪いのはそれを容認したアメリカ政府そのものですが、戦後日本は恥知らずにもルメイに対し航空自衛隊創設に貢献したとして勲章を与えるのです。昭和天皇はルメイの所業をご存じで難色を示されたそうですがアメリカとの関係悪化を恐れる政府によって強引に決められました。

 日本は遅ればせながらようやくレーダーによる敵航空機編隊の探知を始めており必死の防空戦を行いましたが、高度1万メートルを飛来するB‐29を有効に迎撃できる航空機を持っておらず苦戦します。高度1万メートルでまともに編隊を組めるのは陸軍の三式戦飛燕二型のみで、しかもわずか99機の生産では追いつくはずもありません。大半の日本軍航空機は、排気タービン(ターボチャージャー)を備えておらず、高度1万メートルではよたよたと上がって満足な行動ができなかったのです。高度6000mまでは米軍機と互角に戦える海軍の紫電改や陸軍の四式戦疾風でさえそうでした。ベテランパイロットの不足も致命的です。太平洋各地の戦闘でこれら歴戦のパイロットは数多く戦死し、日本本土は新人パイロット主力で戦わざるを得なかったのです。これも特攻を選択せざるを得ない厳しい現実の一つでした。

 といってもB-29も無傷でサイパンテニアンの基地に帰投できるはずもなく、必死の日本軍の迎撃で少なからず被害を受けます。撃墜されなくとも、損傷した機体は途中で不時着しました。そこで米軍はサイパンと東京の中間になる小笠原諸島硫黄島に目をつけます。硫黄島は東京の南1250km。東西6km、南北3kmのしゃもじ形をした小さな島です。平坦なため飛行場建設の適地でした。米軍は硫黄島B-29の不時着基地とし、同時にここにP-51マスタングの護衛戦闘機基地を置く事で問題を解決しようとします。もし硫黄島が失陥すれば、米軍は長大な航続距離を誇る高性能戦闘機P-51のエスコートを受ける事が出来、日本側が迎撃がますます困難にななるのは明らかでした。

 硫黄島は日米両軍にとって非常に重要な島となります。1944年6月大本営はこの島に栗林忠道中将を赴任させました。硫黄島を守る兵力は陸軍第109歩兵師団を基幹とする1万5千5百名。これに海軍市丸利之助少将の指揮する海軍部隊7千5百名を加え、小笠原兵団が編成されます。日本軍には珍しく320㎜大型臼砲、15cm沿岸砲をはじめ噴進砲(ロケット砲)、火炎放射器に至る大小さまざまな重火器が集められました。

 まともに戦っては勝ち目が無いと悟った栗林兵団長は、硫黄島の地下に洞窟陣地を張り巡らし持久戦を戦う事を決意します。しかしその工事は難航を極めました。火山ガスが噴出し地下では60度の高温に見舞われる事もしばしば。満足な湧水もなく雨水を溜めて飲用にするという過酷な環境です。米軍が上陸した時も洞窟陣地は未完成だったそうですから、日本軍将兵の苦労がしのばれます。

 米軍は1945年2月19日上陸を開始しました。上陸に先立ってミッチャ―中将の第58任務部隊の空母群から発進した艦載機による激しい空襲を浴びます。同時に戦艦、巡洋艦駆逐艦を総動員し艦砲射撃、輸送船団からも無数のロケット弾が島に発射されました。通常なら水際撃退をする日本軍はこれだけで壊滅的打撃を受けるはずです。ところが栗林中将は、1日でも長く米軍を引き付けるため水際撃退戦術を採用せず、敵軍を島の奥深くに誘い出し持久戦で苦しめる作戦を選びます。

 米海兵隊第5水陸両用軍団(H・スミス中将、海兵3個師団基幹、兵力7万)の将兵は、上陸した時日本軍から射撃がほとんどなかったので拍子抜けしました。ところが上陸して200mも進むと、島内各地から激しい砲撃が浴びせられ一歩も前に進む事が出来なくなります。日本軍は、島内を座標でわけ正確に射撃してきたそうです。米軍は日没までに3万名の兵力、戦車200両を揚陸しますが、すでに2420名の死者を出していました。

 夜になると、日本軍の夜襲に悩まされます。栗林戦術の特徴は日本軍の伝統であるバンザイ突撃を禁止した事です。無暗に斬り込むのではなく一人十殺を徹底しました。日本軍の持久戦に悩まされた米軍は、島の南端で最高峰(海抜167m)の摺鉢山に攻撃を集中させます。ここは海軍部隊が守っていました。重砲が集中配備されており、米軍は頭上からの砲撃で大きな被害を出していたのです。激しい攻防戦の末、摺鉢山は2月25日陥落しました。山頂で米兵が星条旗を掲げている写真は有名です。

 摺鉢山陣地の陥落で硫黄島の戦いの大勢は決しましたが、その後も日本軍は粘り強く抵抗を続け米軍が硫黄島を完全に制圧できたのは上陸から一ヶ月以上過ぎた3月26日でした。栗林兵団長の最期ははっきりしませんが、最後の突撃に同行し戦死したと伝えられます。硫黄島の戦い、日本軍は21304名と守備隊のほとんどが戦死する激戦でした。しかし、米軍にも5885名の戦死者、48名の行方不明者、17702名の負傷者が出ます。米軍の損害が日本軍を上回った唯一の戦いです。島嶼戦では孤立した守備側が大きな損害を出すのが普通でしたので、いかに栗林中将以下日本軍将兵が奮戦したか分かります。小笠原兵団は見事にその役目を果たしたと言えるでしょう。

 次回は、日本軍最後の戦い『沖縄決戦』を描きます。