沖縄都市モノレール「ゆいレール」おもろまち駅南方の丘は都市開発の際、無数の人骨が出土したそうです。この地は日本軍が安里(あさと)52高地と呼び、米軍がシュガーローフヒルと呼んだ沖縄戦最激戦地の一つでした。
安里52高地は、現在では水道タンクがあるあたりですが丘の西側は都市計画で大きく削り取られ当時の面影を残していません。さらに安里52高地と複郭陣地を形成した大道森(だいどうむい)陣地米軍呼称ハーフムーンヒルが東側にあったのですが、こちらも現在では道路が建設され当時の地形はほとんど分かりません。どちらも、まだまだ日本軍兵士の遺骨が無数に眠っていると言われます。シュガーローフヒルの南西にはホースシューという窪地がありここには日本軍の迫撃砲陣地がありました。
ちなみに、シュガーローフというのはアメリカ南部の棒状砂糖菓子のことですが米軍の俗語ですり鉢状の地形を指すそうです。この場合は高地の形状からの命名でしょう。現在では那覇市の領域に含まれるこの地は、帝国陸軍第32軍の司令部がある首里の最終防衛戦の一角でした。地図を見てもらうと分かる通り首里から3キロ弱。
日本軍にとっては絶対に守らなければならない陣地でした。嘉数、前田高地の第一線陣地の戦闘で粘り強い防衛戦闘を行い米上陸軍に多大の出血を強いた日本軍ですが、反斜面陣地戦術を理解しない大本営の横槍によって総攻撃を行わざるを得なくなります。そして第32軍高級参謀八原大佐の危惧通り大失敗に終わり、沖縄の日本軍は貴重な兵力を失いました。後のない第32軍は、絶体絶命、決死の覚悟で最終防衛戦の守りについたのです。
嘉数の戦いの記事
でも書きましたが、沖縄の地形は隆起珊瑚礁が多く硬くて掘りにくいもののコンクリートに匹敵する強度を持ち坑道式の地下壕を張り巡らせれば強固な要塞ができると言われます。日本軍は、この地に多くあった亀甲墓を利用しそこを陣地の入り口に利用して地下壕で繋ぐことによって強力な陣地を築いていました。当時のシュガーローフヒルの写真を見るとなんの変哲もない丘に見えますが、実は必殺の陣地が築かれていたのです。
シュガーローフヒル、ハーフムーンヒル、ホースシューの複郭陣地を守るのは独立混成第44旅団隷下の独立混成第15連隊です。ただこれだけでは砲兵火力が不足していたので、首里方面の重砲の支援を受ける計画でした。
米軍は第6海兵師団を投入します。同部隊がこの地に達したのは1945年5月12日。米軍はこの地域を戦略的に重視しておらず単なる通過点と考えていました。無警戒の第6海兵師団G中隊は、丘を登った瞬間四方から十字砲火を浴び中隊の半数が死傷、事実上壊滅します。生き残った兵士の証言では日本軍は背中からも撃ってきたそうです。シュガーローフもまた八原参謀が考案した反斜面陣地だったのです。
翌13日、思わぬ日本軍の抵抗に驚いた第6海兵師団は、2個中隊で丘を攻撃しますが結果は前日と同様でした。14日は、師団隷下第22海兵連隊第2大隊が全力で攻撃、これはある程度成功します。ところが夜になるとどこからか迫撃砲弾が飛んできて大混乱に陥りました。そこに日本軍の夜襲があり日米両軍は稜線を挟んで手榴弾を投げ合うという凄惨な戦いが起こります。のちにこの稜線はハンドグレネードリッジと呼ばれることになりました。
後で分かった事ですが、迫撃砲弾はシュガーローフの後方にあるホースシューから発射されたもので、米軍から見て死角になるところでした。米軍がこの地を突破するにはシュガーローフを占領するだけでは駄目で、複郭陣地を形成するハーフムーンとホースシューを同時に制圧しなければなりません。
米軍が、日本軍防御陣地の全体像をようやく把握したのは5月16日でした。その間も激戦は続き米軍の損害は増え続けます。この日は1個連隊を投入した大規模攻撃が艦砲射撃の支援のもと敢行されますが、日本軍の十字砲火で撃退されたばかりか撤退中も首里からの支援砲撃を受け壊滅的打撃を受けます。まさに第6海兵師団にとって最悪の日でした。
連日の激戦を制した日本軍でしたが、米軍と同様日本軍も激しく消耗していました。米軍は17日から加わった第29海兵連隊も18日の攻撃に投入し2個連隊(これに第6戦車大隊が加わる)という大軍をもってようやく日本軍陣地を制圧します。それも日本軍の抵抗が激しいため最後は予備部隊の第4海兵連隊まで投入しての苦い勝利でした。
この戦いにおける日本軍の損害は不明です。ただし独立混成第15連隊はほとんど壊滅したのではないかと思います。米軍はこの戦闘で実に4000名(戦死、戦傷、戦闘疲労患者含む)近い大損害を出しました。
シュガーローフを含む最終防衛戦を米軍に突破された第32軍は、ついに首里放棄を決断。ガマと呼ばれる天然洞窟が無数にある沖縄本島南部島尻地区の丘陵地帯へ移りました。この時、第32軍は民間人の犠牲を避けるため住民に知念半島への撤退を勧めますが、入口を米軍に制圧され事実上不可能になっていました。沖縄戦勃発前にも軍は県民に本島北部への撤退を命じていましたが、軍を信頼しきっていた県民は軍と行動を共にする道を選択していました。こうして数十万の沖縄県民は軍と共に島尻地区に立て籠もる事になり多くの人命が失われる悲劇となったのです。
6月23日午前4時ごろ(異説あり)、追い詰められた日本軍は摩文仁の軍司令部で第32軍司令官牛島中将、軍参謀長長中将が自決。残存兵力も6月25日頃には組織的抵抗力を失いました。しかし一部の生き残りは抵抗を続け、最後の兵士が投降したのは終戦後の9月7日だったと伝えられます。