鳳山雑記帳はてなブログ

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セヴァストポリ要塞

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 マジノ線に味をしめて今回は要塞造りに定評のあるソ連(ロシア)の最高傑作、セヴァストポリ要塞について語ります。(これシリーズ化しようかな?ジブラルタルとかいろいろ書けそうだし…笑)


 黒海北岸に突き出たクリミア半島。その最南端の西へ突き出た半島にセヴァストポリ要塞はあります。黒海艦隊の母港であり黒海の死命を制する要衝の地であることから、帝政ロシアの時代から営々と築かれ難攻不落を唄われました。その真価が初めて発揮されたのはロシアの南下を英仏が防いだクリミア戦争でした。この時も戦闘では陥落せず、ロシア軍の放棄で英仏が手に入れただけでした。



 そして、なんといっても最大の激戦が第二次世界大戦中、東部戦線で起こったドイツ軍との戦闘でした。

 ソ連軍は、得意の要塞工事で難攻不落にさらに磨きをかけてドイツ軍を待ち受けていました。詳しい資料がないので想像でしかないのですが、要塞を囲む幾重もの戦車壕、鉄条網、歩兵用塹壕、コンクリートで築かれた障害、無数のトーチカ、対戦車陣地、そして高所には旋回砲塔に収まった要塞砲。

 まともに戦えば、日露戦争旅順攻防戦以上の激戦が繰り広げられるはずでした。


 対するドイツ軍は、クリミア半島攻略を担当する第11軍司令官にマンシュタインを起用します。

  エーリッヒ・フォン・マンシュタイン、西方電撃戦の立案者でのちにハリコフ攻防戦「後の先作戦」で名将の名をほしいままにするドイツ陸軍の至宝は、要塞攻略の鍵は火力にあると見抜いていました。


 まず後顧の憂いを断つためクリミアの入り口ペレコプ地峡を抑え、東部のケルチ半島を攻撃します。要塞の孤立を恐れたソ連軍も黒海艦隊を使って陸戦隊をケルチ半島に上陸、激戦が繰り広げられました。

 装甲師団を持たない第11軍は機動力に欠けていましたが、マンシュタインは粘り強い指揮でソ連軍の抵抗を排除、要塞包囲に成功します。

 しかしマンシュタインはすぐに攻撃を開始しませんでした。あるものの到着を待っていたのです。

 それは80僂箸いμち祥の巨大列車砲グスタフ、60兌走臼砲カールをはじめとする1300門の火砲でした。


 要塞の攻略法は歩兵の浸透突撃だと言われますが、それは最後の段階です。まずは火砲によって要塞突破口を徹底的に叩いておかなければいけません。それが無かった、あるいは不十分であったからこそ旅順であれほどの損害を出したのです。


 セヴァストポリの主力要塞砲は戦艦ガングート級と同じ12インチ三連装砲だと言われています。これに対抗するには普通の火砲では無理でした。

 さすがにグスタフやカールが撃ちだす砲弾は猛威力を発揮しました。陣地の厚さ何メートルもあるコンクリートも一撃で粉砕できる威力でした。

 そこにできた突破口に野砲兵部隊が進出し近くのトーチカ、対戦車陣地を潰して道を作ります。最後が歩兵の浸透突撃でした。

 空からはもちろんドイツ空軍のJu87スツーカ急降下爆撃機の支援を受けます。近代要塞の攻略には制空権の確保が不可欠であるという戦訓はここからも引き出せますね。
 1942年6月7日の包囲開始から5日間の猛攻撃で要塞北面の陣地はすべて破壊されました。その他の方面陣地は北面ほど重厚ではなく7月3日ついに要塞は陥落します。この功績によりマンシュタインは元帥に昇進しました。

 本格的戦闘開始からは一月足らず、しかし作戦開始は1941年9月24日ですから実に9か月半かかっているわけです。

 要塞攻略には入念な準備がいるという事でしょう。巨大な列車砲や自走臼砲が無かったらそれこそ年単位の時間を要したことは想像に難くありません。それほどセヴァストポリ要塞は強固だったということです。


 私はセヴァストポリ要塞は、半永久的なパックフロント(ソ連式対戦車陣地)だとイメージしています。もちろん要塞ですからパックフロント以上の巨砲が備えられてはいますが…。


 まさに恐るべきロシア人の要塞建設能力ですね!