鳳山雑記帳はてなブログ

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内戦はなぜ起こったか?    - シリーズ スペイン内戦① -

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 最近、スペイン内戦のことを考えることが多いです。ファシズムなどの全体主義が人類にとって不幸をもたらす体制だったということは歴史が証明していますが、民主主義と社会主義のどちらが良かったのか?という命題についていまだ結論がでていません。むろん世界の大多数の人間は民主主義がよりましだろうということでコンセンサスが得られているんですが、いまだ中国をはじめ社会主義共産主義の国家があるのも事実。


 その結論を出すのに多くのヒントを与えてくれるのは、じつはこのスペイン内戦だったのではないかと愚考する次第です。

 私は何回かに分けてこの問題を考えていこうと思っています。その前にスペイン内戦を知らない人のために…


『スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española、1936年7月 - 1939年3月)とは、第二共和政期のスペインで勃発した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコ将軍を中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。』(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)



 一応シリーズとして

(1)スペイン内戦の原因  

(2)戦争の経過

(3)独・伊とソ連の軍事援助と陸海空の戦闘

(4)コンドル軍団とゲルニカ爆撃 バスクの悲劇

(5)国際旅団とジャック・白井

を予定しています。



 本稿では、スペイン国民のすべてを巻き込んだ内戦がなぜ起こったのかについて考察したいと思います。


 意外に思われるかもしれませんが、第2次大戦前には社会主義共産主義は今で言うと民主主義とあまり変わらないものという認識が蔓延していました。これは巧妙な左翼側の宣伝もあったでしょう。さらには、戦後明らかになる社会主義共産主義国による人権弾圧、自国民の虐殺の事実を誰も知りませんでしたから。

 むしろ国民を抑圧する体制である全体主義国家こそが悪だというものが多かったのです。だからこそ自らファシストを宣言し人民戦線政府に対して反乱を起こしたフランコ将軍派を悪と決め付け、人民戦線政府こそ民主主義を守る正義の政府という(今から見ると噴飯ものの)彼らの宣伝を信じ、アーネスト・ヘミングウェイジョージ・オーウェルなどの知識人までがこれを応援するという状況が現れたのだと思います。当時の若者たちが、熱狂して人民戦線側の義勇軍、国際旅団に大挙して参加したのも正義を信じたからでしょう。


 しかし内戦の本質はそんな生易しいものではありませんでした。作家の三野正洋さんはスペイン内戦の遠因は米西戦争にあったと指摘しています。私は彼の本を読んで衝撃を覚えました。

 米西戦争こそ、それまで植民地帝国の余喘を保っていたスペインを決定的に凋落させた戦争であり、その戦争で新興国アメリカに敗れたことでスペイン社会の様々な矛盾があふれてくるのを防いできた軍部に対する国民の信頼を失墜させ、矛盾をむき出しにさらけ出すようになってしまったのが根本の原因であったとする彼の主張は卓見だと思います。

 それまで植民地からの収奪に頼り内政に心を配らなかった当時のスペインは、貴族と教会が国土の80%もの土地を占有するという前近代国家でした。農民は貧しく産業も発展していないため、都市の労働者も苦しい生活を強いられていました。

 スペイン政府としてもこの状況にただ手をこまねいていたわけではなく何回か土地改革を試みてはいました。しかしスペイン継承戦争ナポレオン戦争などでスペイン王権は統治者としての権威を失墜し、軍部までが国民の信頼を失ったとなっては効果があるはずもなく、事態はますます悪化していったのです。


 このままではいけないとスペイン人の誰もが考えていました。中でも都市の知識人と労働者を中心とする左翼は、成功している(ように見えた)ソ連のような共産主義体制国家の樹立こそこの危機的状況を解決するただ一つの手段だと思い始めていました。

 一方、右翼の側でも軍部を中心にたとえ個人の権利を一時制限しても全体主義国家体制での強力な改革こそ危機打開の道だと考えはじめていました。


 疲弊した国家を何とかしたいという考えは一つでしたが、その手段の違いがのちに国民全部を巻き込んだ流血の事態に陥らせるのですから、まさに悲劇でした。


 スペイン各地で左右両勢力による小競り合いは続きました。そんななか1936年総選挙が行われます。人民戦線派58%、ナショナリスト28%、残りは中間派という結果でした。

 実はそれ以前の1931年それまで続いていたプリモ・デ・リベラ将軍による軍事独裁政権を倒し左翼勢力が第2共和政政府を樹立していたのですが、1933年に右派が政権を奪い返すなど混乱が続いていたのです。1931年国王アルフォンソ13世も左翼政権誕生を機に退位していたので国民をまとめる象徴が何もないまま混乱だけが際限なく拡大されるという末期的状況でした。


 この総選挙でも、左翼政権が自分たちに都合のよい選挙制度を作り有利な態勢で選挙を行ったという批判が右派から上がりました。実際調べてみると、左派47%、ナショナリスト43%という得票率でした。

 国民の不満は大規模なストライキ、左右両派のテロという事件によってさらに増幅されます。これはもはや内戦にならないのが不思議なくらいでした。ある資料によると左右両派のテロの犠牲者が1800人を上回ったというほどです。

 そしてついに、右派の輿望を集めるフランシスコ・フランコ将軍の実権を奪うため、人民政府が彼を閑職であるバレアス諸島守備隊の司令官に左遷しようとしたことが発火点となりました。

 フランコ将軍自身、国家の危機的状況を救うには軍部による統治以外ないと公言しており、人民戦線政府に睨まれていましたから、フランコこそスペインの救世主と信じる軍部の青年将校たちは激昂しました。

 1936年7月18日、青年将校に推される形でフランコはついに立ち上がります。人民戦線政府打倒を公式に宣言し、配下の部隊に戦闘開始を命令しました。

 以後33か月にわたってスペイン全土、全国民を巻きこんだ内戦が勃発したのです。

 
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 第2部では、内戦の大まかな経過を述べたいと思います。いつ完結するか分かりませんが、情熱の続く限り努力したいと考えているところです。