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印パ戦争    後編

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 第2次印パ戦争は両者痛み分けに終わりますが、戦争で疲弊した両国では国民の不満が爆発します。特にパキスタンは深刻な東西問題を悪化させていきました。

 パキスタンは英領インドのうちイスラム教徒が中心に建国した国ですが、国土が東西に分かれていたためそれを一つにまとめるのは至難の業でした。本土である西パキスタンはアーリア系のパシュトーン人などが中心でしたが、東パキスタンはもともとのインド土着民族であるドラビダ系のベンガル人が大半を占めていました。政府の枢要な地位はすべて西パキスタン出身者が占め、東パキスタンベンガル人は抑圧されていたのです。パキスタン全土で国民が政府に対する不満を示し始めると、東パキスタンでも完全自治権を唱えるラーマンらパキスタン人民連盟(AL)が台頭します。

 パキスタン政府は、ラーマンを分離主義者として逮捕しました。ところが逮捕によって激高した民衆は各地で暴動を起こし、アユブ大統領は辞任に追い込まれます。後を継いだのは陸軍総司令官ヤヒヤー・カーンでした。ヤヒヤー新大統領は、最初こそ国民に融和の姿勢を示し軍部独裁から民政移管・総選挙の実施を約束します。

 ところが、いざ総選挙をしてみると人口の多い東パキスタンでラーマン率いるALが圧勝、西パキスタンで優勢だったパキスタン人民党を数の上で上回ったのです。ALは東パキスタン自治権拡大を保障する憲法改正を求めますが、ヤヒヤー大統領はこれを拒否。ヤヒヤー大統領の政治力のなさに見限った軍部は、野党第二党のパキスタン人民党党首ブットに急接近しました。

 パキスタンを実質的に支配する軍部に東パキスタン自治権拡大の意思がないと見たALは、ヤヒヤーの妥協案を蹴り下野します。ALは東パキスタン各地でバングラデシュ国旗を掲げ政府への対決姿勢を鮮明にしました。東パキスタンに駐屯する軍は西出身者が大半でしたので、これに激しく反発東パキスタンは内戦状態に突入します。1971年3月25日の出来事でした。

 ヤヒヤー大統領は、ALを非合法化しラーマンを逮捕します。しかし事態は収まるどころか東パキスタン各地で政府軍と独立派が激しく市街戦を演じました。独立派はついに独立を宣言、バングラデシュを正式な国号と定めます。パキスタン政府がこれを認めるはずはありません。弾圧は激しさを増し、正規師団4個を投入した政府軍が有利になっていきました。東パキスタンベンガル人は、内戦の激化で家を失い難民となってインドへ亡命します。その数は800万を越えたとも言われます。ところがインド政府にとっては国内の治安も悪化するし迷惑極まりない事態でした。

 インド政府は、東パキスタンを独立させれば宿敵パキスタンの力を削ぐ事が出来ると考え増大する難民対策にもなる妙案を考えます。難民のうちから民兵を募り武器を与え訓練して再び東パキスタンに送り込みました。当然、パキスタンはインドの背信行為に激高します。1971年9月印パ両軍は国境で小競り合いが頻発しました。

 そしてついに同年11月21日インド軍の大部隊が東パキスタンの国境を越え両国は全面戦争に突入。すなわち第3次印パ戦争です。これまではカシミール地方が舞台でしたが、今回はパキスタン飛地パキスタンが主戦場になりました。インド軍は総兵力24個師団のうち実に半数の12個師団20万の大軍を投入します。東パキスタンに駐屯するパキスタン軍はわずか4個師団、しかも民衆も敵と云う四面楚歌状態でした。

 ここで当時の印パ両軍の兵力を見てみましょう。

【インド軍】
陸軍:89万  歩兵師団×23個、機甲師団×1個、機甲旅団×1個
         主要装備はセンチュリオン戦車、T-54/55戦車

海軍:40万  総排水量9万トン
         空母×1、巡洋艦×2他合計79隻

空軍:8万人  戦闘機420機(MiG-21×140機、ホーカー・ハンター×120機他)
         攻撃機爆撃機360機(ダッソーミステール×40機、Su-7×120機他)


陸軍:36万人 歩兵師団×12個、機甲師団×2個、機甲旅団×1個
         主要装備はM46、M48戦車(以上アメリカ製)59式、62式戦車(以上支那製)

海軍:1万人 総排水量4万トン
        駆逐艦×9ほか合計37隻

空軍:1.7万  戦闘機140機(F-104スターファイター×10機、ミラージュⅢ×20機、F-6[支那製]×70機他)
         攻撃機爆撃機260機(F-86Fセイバー×130機他)


 海軍はインドが圧倒的、陸軍は戦車戦力は互角ながら、アメリカがパキスタンに陸上兵器供与を渋り始めたため支那製兵器が増えています。ただ航空機はアメリカが自国製戦闘機の保有を許し数は少ないものの航空戦力ではパキスタンが上回っていました。
 

 今回の主戦場はガンジス河河口デルタ地帯の湿地。再びアメリカ製M48とイギリス製センチュリオンの対決が起こります。ところが今回もセンチュリオンが勝利をあげました。中東戦争ではT‐55の撃破記録を持つ(というかパーフェクトゲームを演じた)M48が何故センチュリオンに敗れたかですが、私はアメリカはパキスタンタングステン弾芯の徹甲弾をほとんど供与していないのではないかと考えているのです。というのも湾岸戦争ソ連イラクに対してはタングステンではなく普通の鋼鉄製徹甲弾を供与していました。イラク軍が多国籍軍の新鋭戦車の前面装甲を一度として抜けなかった理由はこれでした。イラク戦車の発射した砲弾は装甲に当たると砕け散ったそうです。いくら重装甲といってもセンチュリオンも所詮は均質圧延装甲ですからね。あるいはイスラエル軍戦車兵とパキスタン軍戦車兵の練度の違いという要素が大きかったのかもしれません。

 航空戦は、数こそ少ないもののアメリカ製の高性能ミサイル、サイドワインダーを搭載したパキスタン空軍が有利に戦いを進めます。この当時はすっかり旧式になっていたF-86FセイバーでさえハンターやSu-7の撃墜記録を持っています。当時のインド軍は空対空ミサイルを持っていなかったのかあるいは持っていても性能が低かったのかは謎です。兵器体系的にはソ連のR-3アトール(サイドワインダーのデッドコピー)を持っていても不思議ではないんですけどね。登場は1962年ですから。

 戦闘は拡大し、東パキスタンだけではなくカシミールやインド西部国境沿いでも激闘が続きますが戦いの帰趨は東パキスタンパキスタン軍が保持できるかどうかにかかってきました。インドは優勢な海軍力を使いベンガル湾を封鎖、本土と1500kmも離れている東パキスタンの補給を断ちます。数の上でも劣勢なパキスタンの東パキスタン守備軍は敢闘しますが多勢に無勢、各地で敗退し東パキスタンの中心都市ダッカに立て籠もりました。そしてインド軍の包囲、総攻撃を受けて1971年12月14日、ついに降伏します。

 カシミール戦線では優勢だったパキスタン軍ですが、東パキスタン失陥で戦略目標を失いインド政府の勧告を受けて12月17日ついに停戦を受け入れました。東パキスタンは1971年12月16日制式にバングラデシュとして独立を達成します。ラーマンは初代大統領になりました。

 それにしても短期間にしては犠牲の大きな戦争でした。インド軍の戦死者1426人、行方不明2149人、負傷者3611人。パキスタンの戦死者3226人、他不明。ただし主戦場になったバングラデシュは民間人30万人から100万人が犠牲になったと云われます。

 パキスタンのヤヒヤー大統領は敗戦の責任を取って辞任、後任大統領にはブットが就任しました。パキスタンは敗戦の後遺症を後々まで引きずります。人口は半減し経済的、政治的損失は計り知れないものがあったそうです。一方、勝利者となったインドも同様でした。莫大な戦費はインド経済を圧迫します。独立を達成したバングラデシュも国民の犠牲が甚だしく現在でも最貧国の一つに数えられるほどです。

 そしてそもそもの戦争の発端だったカシミール問題は現在にいたっても解決していません。