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初代鎌倉公方    足利基氏

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 皆さんは室町幕府の初代将軍は知っていますね。足利尊氏ですが、では二代将軍は誰でしょう?義詮(よしあきら)とちゃんと言えましたか?三代義満は有名ですが、二代目って意外と目立たないんですよね。当然義詮の弟、基氏など無名な存在でしょう。

 足利基氏は、関八州と伊豆・甲斐を統括する室町幕府出先機関・鎌倉府の初代長官、いわゆる鎌倉公方になった人物です。(1340~1367)


 尊氏を父に正室赤橋氏を母に嫡流として生まれた基氏は、同腹の兄義詮とは十歳離れていました。尊氏の弟直義の養子として育てられます。この事実をもって基氏が父に疎まれていたと論ずる人もいますが、異腹の兄直冬や尊氏の娘も預けられていますので、子供のない直義(唯一の子供は四歳で早世していた)の寂しさを紛らわすために預けた家族愛の証明だったと私は解釈します。


 基氏が歴史上現れたのはわずか九歳のときでした。尊氏の寵臣高師直と直義の対立からいつしか尊氏と直義自身の対立となった観応の擾乱が始まると、尊氏は鎌倉にいた嫡子義詮を京都に呼び戻し、代わりに弟の基氏を鎌倉に派遣します。この時随行したのはわずか百騎に満たない少勢だったそうです。

 擾乱自体は高師直兄弟の処刑、尊氏の直義派制圧で沈静化していったのですがもともと直義与党の多い関東では幼少の基氏は飾り物の存在にしかすぎませんでした。

 鎌倉府は尊氏派の高師冬と直義派の山内上杉憲顕の両執事(後の関東管領)の対立が激化していました。尊氏派が優勢になると憲顕は失脚し越後に逃れます。

 しかし直義派の反撃で高師冬も1350年敗死してしまいます。南朝方の動きも無視できず、尊氏は1351年関東に入り基氏をバックアップしました。直義自身は降伏しこれで関東は平穏になるやに思えましたが、翌1352年2月直義が急死してしまうのです。あまりのタイミングのよさに太平記では兄尊氏による毒殺説もでているくらいです。

 これで名実ともに関東の主人となった基氏は、このとき十三歳になっていました。尊氏が関東にあった2年間は、初めての親子水入らずの時間でした。旧直義派の東国守護の一斉更迭など政治的な動きもありましたが、尊氏は息子基氏にこの期間帝王学を教えたと想像します。


 そして、1353年尊氏の京都帰還が基氏親政の始まりでした。鎌倉府執事には基氏の妻の兄、畠山国清が就任していました。尊氏は基氏に南朝方を討つため鎌倉から出陣するよう命じます。以後1362年まで9年間基氏は武蔵入間川に陣を敷き南朝方討伐に明け暮れました。このため入間川殿とも呼ばれます。

 この9年間は基氏が関東を固めた時期でした。まず尊氏帰還の直前の1353年6月には鎌倉幕府の残党、北条時行を捕らえ鎌倉龍ノ口で処刑します。1358年には新田義貞の遺児義興を謀殺、南朝方の蠢動はほぼ押さえ込みました。


 しかし、内紛もおこりました。鎌倉公方の妻の兄という立場から権勢に驕った執事畠山国清は、旧直義派の諸将の猛反発をくらい罷免要求が出されます。国清は伊豆で挙兵し、やむなく基氏は妻の兄を討つ破目になりました。1362年国清の敗死で事件は解決しますが基氏の心中は察するにあまりあります。


 後任の執事には一時高師有が就きますが、直義派を納得させるために越後に逃れていた山内上杉憲顕が呼び戻され復権しました。1362年のことですが、この時以来憲顕は鎌倉府執事を関東管領と称します。

ようやく関東の騒乱を収めた基氏は鎌倉に帰還しました。以後政権の安定に腐心した基氏でしたが、、夢窓疎石の弟子である義堂周鳳を鎌倉へ招くなど、鎌倉の文化の興隆にも努めました。

 1367年基氏は死去します。享年二十八歳。同年12月には兄である二代将軍義詮もなくなりました。あまりにも早すぎる死ですが、基氏は兄の京都幕府に対抗意識があったのでしょう。鎌倉を第二の首都とする夢と野望を持っていたのかもしれません。

 初代基氏の意思を受け継いだ鎌倉府はやがて京の室町幕府と対立するようになりました。1439年四代持氏が幕府軍の追討を受け自害したことを基氏はどのような気持ちで眺めていたのでしょうか?