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八百比丘尼伝説と不老不死の話

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八百比丘尼

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』日本の殆ど全国に分布している伝説。地方により細かな部分は異なるが大筋では以下の通り。

若狭国のとある漁村の庄屋の家で、浜で拾ったという人魚の肉が振舞われた。村人たちは人魚の肉を食べれば永遠の命と若さが手に入ることは知っていたが、やはり不気味な為こっそり話し合い、食べた振りをして懐に入れ、帰り道に捨ててしまった。だが一人だけ話を聞いていなかった者がおり、それが八百比丘尼の父だった。父がこっそり隠して置いた人魚の肉を、娘が盗み食いしてしまう。娘はそのまま、十代の美しさを保ったまま何百年も生きた。だが、結婚しても必ず夫に先立たれてしまい、父も年老いて死んでしまった。終いには村の人々に疎まれて尼となり、国中を周って貧しい人々を助けたが、最後には世を儚んで岩窟に消えた。

- フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より -

 地位、金、愛、万人が求めるものですが、その根本の欲望は永遠の若さでしょうか?秦の始皇帝しかり、多くの権力者が求めるも叶わぬ夢です。
 しかし、伝説ではその不老不死あるいは不老長寿を実現した人物がいます。西洋ではサンジェルマン伯爵、中国の呂洞賓を始めとする仙人、そして日本では八百比丘尼が有名です。

 サンジェルマンはタイムトラベラーとすべきかもしれませんし、仙人は仙道の修行によって時間を超越した人間とされるのに対し八百比丘尼は、不老不死になれるという人魚の肉を食べただけでそれを実現しています。

 ただ、簡単に不老長寿を実現できただけにその後が悲惨でした。周りは年取るのに自分は永遠に十代のままでは、気味悪がられます。地元に住むわけにもいかなくなり放浪するはめになります。これはさながら「さまよえるオランダ人」のごとく一種の地獄です。

 永遠に年取らないということは永遠に死ねないんですから。青春は過ぎ去っていくからこそ貴重なのです。霊的観点から見ると、人間は霊界にいけば永遠の存在だそうですから、不老不死だといえます。この世に生まれてきて修行し成長することによって神になる(神と合一する)、所謂「人類は成長途上の神である」という神秘主義の主張はあながち間違いではないのかもしれません。

 それを考えれば、やはりこの世は穢土であるのでしょう。厭離穢土欣求浄土(注1)、最後は徳川家康公みたいな結論になってしまいました(笑)。悔いのない人生をおくって笑ってこの世を去ることこそ理想の生き方です。



(注1)
厭離穢土 (おんりえど、えんりえど)とは、浄土教の用語で、欣求浄土と対句で使われることが多い。この娑婆(しゃば)世界を穢(けが)れた国土(穢国)として、厭い離れるという意味であり、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味である。語源は、源信の『往生要集』冒頭の章名に由来するが、その内容は欣求浄土とともに、浄土教思想の基本的特質を表している。