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百姓の持ちたる国 - 加賀本願寺百年王国 -

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 歌舞伎「勧進帳」で有名な富樫氏。北陸、加賀の名家として知られますが、一方、一向一揆に攻め滅ぼされた大名家としても有名です。

 もともと富樫氏は名家とはいえ、強固な領国支配体制ではありませんでした。地侍勢力の強い加賀では、守護といえども強権支配などできず、微妙なバランスのうえに立つしかありません。
 しかも悪い事に越前吉崎御坊を中心にして、蓮如が精力的に布教活動したため、この加賀でも数十万といわれる一向宗信者がいました。

 初めのうちは富樫家最後の当主、政親も自家の内紛に本願寺勢力を利用していました。そのうち彼らの力に恐れを抱きはじめた政親は一向門徒を弾圧するようになります。

 守護としての富樫氏も不安定なものでした。一時加賀半国の守護を赤松氏に取られた時期もあり政親は一国支配を幕府に認めてもらうべく、将軍足利義尚による六角氏討伐(鈎の陣)に出兵するなどしてご機嫌をとりました。しかしそのための軍費は重く領民にのしかかります。
 不満を持った国人層が、同じく不満を抱いていた門徒勢力と結びつくのに時間は掛かりませんでした。1488年、20万ともいわれる一向一揆が加賀で起こります。(長享の一揆
 一揆勢は政親を居城高尾城に囲みました。将軍足利義尚の命により越前朝倉氏、能登畠山氏らが援軍を出しますがことごとく国境で撃ち破られます。万策尽きた政親は一族郎党ともに自害して果てました。ここに鎌倉以来の名門富樫氏は滅びます。

 以後、現在の金沢城にあたる尾山御坊に支配の拠点を移した一揆勢は、1580年織田信長の命を受けた柴田勝家の軍勢に滅ぼされるまで約百年余り加賀国を支配しました。まさに「百姓の持ちたる国」です。

 日本史上、一国を支配するようになった一揆は珍しいケースだと思います。しかし織田信長にとって、世俗君主を否定する彼らは唾棄すべき存在でしかありませんでした。織田勢が加賀に乱入したとき、なで斬りという恐ろしい方針で数万とも数十万ともいわれる多くの犠牲者がでました。これは長島一向一揆の末路とも共通します。逆にそれだけ信長が恐れていたとも言えるでしょう。