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一向一揆が成功するには

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 私の悪い癖は、一つの事を書くとその関連も調べたくなることです。前記事九頭竜川の戦いの兵站考察以来、ずっと一向一揆について考えています。

 

 最初に、雑談から。国民的歴史作家司馬遼太郎に『大盗禅師』という作品があります。かなり昔に読んだ本で記憶が曖昧なのですが、由井正雪の乱を背景に大盗禅師と名乗る怪僧が江戸幕府転覆を企みそこに若者が巻き込まれていくという伝奇小説だったと思います。そのラスト近く、反乱は失敗し若者は幕府に捕縛されてしまいました。

 

 若者は京都所司代板倉重宗に説教され、「反乱は時期を間違ったら絶対に成功しない。幕府が興隆期に当たる時にはどんな緻密な計画を立てても絶対に失敗する。逆に幕府が衰退期に入り人心を失えば杜撰な計画であっても成功しやすい」と諭されます。要するに司馬遼太郎は天の時、地の利、人の和のうち反乱には天の時が一番重要だという意見なのでしょう。私はこの記述を読んだとき激しく同意した記憶があります。

 

 なぜこんなことを書いたかというと、一向一揆の歴史と関係あると思ったからです。本記事では一向一揆がどうやれば勝てたかを考察するつもりですが、現実には織田信長の強大な武力によって加賀、越前の一揆は撫で斬り、長島一向一揆は焼き討ち、石山本願寺も10年の籠城戦の末退去を余儀なくされました。ですから一向一揆が最終的に勝つことはありません。ただ加賀一向一揆守護大名を滅ぼし百姓の持たる国として100年近く一国を支配したのですから成功と言えるかもしれません。

 

 一向一揆の成功例が加賀一向一揆だとすれば、失敗したものとして有名なのは三河一向一揆でしょう。この二つを見ることでどのようにすれば勝てたかが見えるかもしれません。まず加賀一向一揆から見ていきましょう。1488年の加賀国は、守護大名富樫政親がお家騒動で家中も安定せず守護権力が弱い大名でした。家督を争った弟幸千代を倒すために一向宗の力を頼ったほどです。その後守護権力の強化を図る政親と、自分たちの権利を主張する一向宗側との対立から一揆に発展しました。加賀一向一揆は国中の百姓が立ち上がるほど猖獗を極め、ついには守護富樫政親を居城高尾城(金沢市)に攻め滅ぼすまでに至ります。

 

 次に三河一向一揆。1563年に起こった三河一向一揆の原因ははっきりしないのですが、戦国大名として自立しつつあった徳川家康と、大名支配を嫌った三河一向門徒との対立がその一つだったのは間違いありません。当時の家康も主家今川氏から独立したばかりで大名権力は弱いものでした。加えて家臣の半分も一向門徒で敵側に回るという危機的状況にありながら、持ち前の将器で一揆勢を各個撃破し、時には懐柔し半年で鎮圧に成功しました。

 

 加賀が成功し、三河が失敗したのは政親と家康の将器の違いと言ってしまえばそれまでですが、加賀の場合は応仁の乱直後で守護大名の権威権力が衰えていた時期だったという事も見逃せません。実際、島津氏、佐竹氏など一部を除き室町幕府守護大名はほとんど没落します。国を留守にして京都で無意味な戦いをしていたから当然でしょう。三河の時は、群雄割拠でその国に強大な戦国大名がいなければ周辺諸国の草刈り場になるという危機感が住民にあった点が大きかったと思います。家康が一揆勢(に属した家臣)を調略するとき、その点を強調したとも言われます。

 

 その意味では、一向一揆が成功するためには天の時が一番重要、次いで人の和、地の利は三番目に来るという結論になりました。