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世界史英雄列伝(34) 後周の世宗 柴栄 - 五代随一の名君 - (後編)

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 唐王朝を滅ぼしたのは節度使と呼ばれる軍事力と地方統治権を有する者達です。実際、五代の各皇帝も前王朝を滅ぼした節度使たちでした。

 地方軍閥と化した節度使をそのままにしては朝廷を脅かす存在になります。世宗は殿前軍(近衛軍)を編成し皇帝直属としました。同時に節度使の軍権を削り弱体化を図ります。これによって皇帝権力を強化しました。

 また「三武一宗の法難」と呼ばれる最後の仏教弾圧を行ったのも彼でした。ただ今までの弾圧が、道教勢力からの働きかけが原因であったのに対し、今回はただ経済的な理由でした。世宗は廃仏令と僧侶の還俗を命じます。当時は兵役逃れで僧になるものが多かったそうです。また仏教勢力は莫大な富を蓄えていました。
 実際、没収した財産は軍事費などの国家財政に充てられます。こうして国力育成に努めた世宗は、955年、四川省にあった蜀を攻め四州を奪います。次に当時最大の経済大国だった南唐を攻め、経済基盤であった塩の大産地がある長江以北の南唐領を割譲させました。

 こうして後方を固めた世宗は、959年懸案だった契丹とその衛星国である北漢を攻めるため北伐を開始します。燕雲十六州のうち南方の二州をまたたくまに降し、さらに北上しようとしたとき、世宗は突然病に倒れました。都開封に帰還するも病は好転せずついに崩御します。享年三十九歳、わずか五年の治世でした。

 十分中国を統一する力量をもった世宗の惜しまれる死でした。中途に終わった統一事業は、世宗の死後、無血クーデターにより帝位についた世宗に最も信頼された殿前都点検・趙匡胤によって完成されます。

 宋の太祖趙匡胤は、柴氏に惨い仕打ちをせず子々孫々まで大切にしたそうです。余談ですが、水滸伝で有名な小旋風の柴進は、この世宗の子孫だと伝えられます。