永禄八年(1565年)5月19日、清水寺詣でと称する一万二千もの大軍が京に入りました。率いるのは松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)らです。
この軍勢は清水寺には向かわず足利十三代将軍義輝の住む二条御所に向かいます。ひたひたと御所を囲む三好、松永らの旗印を見て義輝は死を覚悟しました。
実力者、三好長慶の死後幕府の権威復活を目指していた義輝と、引き続き幕政を牛耳ろうとしていた松永・三好三人衆(長慶の家老)との対立は先鋭化していました。しかし世間の人は、まさか将軍は襲いまいと考えていましたし、義輝自身もそうでした。しかし、彼らに世間の常識など通用しませんでした。
義輝は日頃から剣を好み、剣聖塚原卜伝から秘剣「一の太刀」を授けられたほどの剣豪です。このときも秘蔵の名刀20ふりばかり、畳に突き刺します。これは人を斬ると刃こぼれや、人の脂が付いて日本刀といえど何人も斬れなくなるからです。
次から次へと襲い掛かる敵兵を、義輝は畳に刺した名刀を次々と替え斬って斬って斬りまくりました。しかし多勢に無勢です。ついに力尽き数人がかりで襲い掛かった敵兵の手に落ちました。十三代将軍足利義輝の最期でした。
義輝が個人の武勇に頼らざるを得なかったのは、足利将軍の権威がそれだけ衰えた証拠でした。ここに悲劇があったと思います。
なお、将軍を討つという大逆を犯した三好、松永らですが結局天下を統べることなどできず、上洛してきた織田信長の勢力に滅ぼされるだけでした。