世界史の記事もついに100個めになりました。それを記念して中国・春秋時代に斉の桓公を援けて最初の覇者にした管仲(字は夷吾)を書きます。
三国志で有名な諸葛亮は、若い頃自分を菅仲・楽毅になぞらえたそうです。また「衣食足りて礼節を知る」と言う言葉は、「管子・牧民編」の「食廩実則知礼節、衣食足則知栄辱」からきています。
管仲は若い頃、斉の大臣の家系である鮑叔牙と親友でした。貧困だった彼は鮑叔牙と商売をしますが、いつも騙して多く利益をとりました。しかし、人格者の鮑叔牙は笑ってこれを許しました。
二人は、斉の公子にそれぞれ仕えます。管仲は公子糾に、鮑叔牙は公子小白に。当時の斉公で両公子の兄にあたる襄公は実の妹と通じる異常者で、治世は乱脈を極めました。命の危険を感じた両公子はそれぞれ隣国に亡命します。そんなとき襄公は家臣に殺されてしまいました。
隣国「魯」に亡命していた公子糾は魯公の後押しで斉に向かいます。一方公子小白は亡命先の「莒」(きょ)から斉に向かいました。
管仲は先回りして、小白の行列を待ち伏せします。管仲の放った矢が当たって、小白は倒れました。これでライバルを倒したと安心した公子糾は魯軍とともにゆっくり斉の首都臨淄に向かいました。
しかし、臨淄ではすでに小白が即位していました。実は矢はベルトの止め金に当たっていました。鮑叔牙の助言でとっさに死んだふりをし、首都に急行していたのです。
待ち構えていた小白の軍勢にさんざんに撃ち破られた公子糾は魯に逃げ帰ります。
小白は、死後「桓公」と諡号されますから、以後桓公で通します。桓公は自分を殺そうとした管仲が憎くてたまりませんでした。これを殺そうと計ったところ鮑叔牙が進言します。
「我が君が斉一国の君主で満足されるなら私が宰相でも足ります。しかし、天下の覇者を目指されるなら菅仲を用いるべきでしょう。」
この言葉によって、管仲は許され斉の宰相に任ぜられました。
後年、管仲は述懐しています。「私がもと貧困であった時、鮑叔と商売したことがある。その儲けを分配する時自分の取り分を多くしたが鮑叔は私のことを貪欲だとは言わなかった。私が貧しいと知っていたからだ。 - 中略 - 公子糾の敗れたもうた時、召忽は殉死した。私は牢に入れられ辱めを受けたが、鮑叔は私を恥を知らぬ男とは言わなかった。私が小さな節義に恥ずかしがらず、功名が天下に現れないことを恥としていると知っているからだ。私は父母から生を受けたが、私をまことに知っているのは鮑子である。」
後世、「管鮑の交わり」と称される親友、鮑叔牙の推挙によって世にでた管仲は見事にその期待に応えます。海に面した小国であった斉を製塩業など殖産興業に務め、富国強兵政策を推し進めました。また外交でも大義名分を重視し衰微しつつあった周室を援け、諸侯を集めて桓公を盟主とする会盟を開き、桓公を春秋時代最初の覇者にします。
斉は、菅仲の時代に春秋時代有数の大国に成長しました。
鮑叔牙は自分が宰相になるチャンスがあったにもかかわらず管仲を推挙し、自分は次位に甘んじます。天下の人は、管仲の賢明を讃える以上に鮑叔牙がよく人を知る明があったと讃えました。