鳳山雑記帳はてなブログ

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「命を賭けた大博打 」 - 易聖高島嘉右衛門の父、遠州屋嘉兵衛 -

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 明治の易聖として有名な高島嘉右衛門ですが、その父である遠州屋嘉兵衛がそれ以上の傑物だった事は知られていません。恥ずかしながら私も、高木彬光著『占い人生論』を読むまで知りませんでした。その知られざるエピソードをご紹介します。

 遠州屋嘉兵衛は常陸国牛渡村の庄屋の三男として生まれました。反抗精神旺盛で若い頃から家を飛び出し江戸に出ると、丁稚奉公からたたき上げ遠州屋の暖簾を分けてもらって自分の店を持ちました。
 彼の侠名が広がったのは天保四年(1833年)の南部領内の大飢饉の時でした。四月から八月まで四ヵ月間雨が降り続き農作物は全滅、領民は餓死寸前までいきました。
 商売柄、南部藩と取引のあった嘉兵衛は、藩の重役から何とかしてこの窮状を打開する策がないか相談をうけます。

 数日考えた嘉兵衛は自分の考えた策を重役に話します。それを聞いた重役は震え上がりました。しかし背に腹は変えられません。南部藩江戸家老は自分が切腹する覚悟でこの案を採用します。

 嘉兵衛は南部藩勘定奉行、遠山嘉兵衛という触れ込みで供を連れ九州は佐賀鍋島藩に乗り込みます。十一万両で米三万石を買い付けるという商談はすぐ成立しました。現金引換えという条件でしたが、情勢逼迫のためということでまず米だけを先に南部藩領に送らせます。
 そのあとで嘉兵衛は、「実は金がない」と白状します。騙されたと知った佐賀藩では大騒ぎになりました。しかし、自分と何の関係もない南部領民のために、死を覚悟しての大芝居は佐賀藩士たちの心を打ちます。嘉兵衛の真心が通じたのでしょう。十年の年賦払いという契約に切り替えて嘉兵衛は悠々と江戸に帰還しました。南部藩ではその功績を認め、子々孫々にいたるまで永代士分待遇にするという処置を取りました。

 どうです、凄い人がいたものですね。まさに義人と言えます。嘉兵衛も立派なら、騙されたと知ってもこれを殺さず、契約を切り替えることですました佐賀藩も立派です。そして死を覚悟して送り出した南部藩江戸家老も。この話を初めて読んだ時涙がでてきました。現代の世にこのような立派な人たちがはたしているのでしょうか?