ヨーロッパ中央部、チェコからスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと半円形に広がるカルパチア山脈。山脈に囲まれた盆地あるいは平原をパンノニア地方と呼びます。この地は後にハンガリーとも呼ばれました。もともとパンノニア族やゴート族が住んでいましたが、紀元前1世紀、ローマに征服され属州となります。5世紀初頭アッチラ大王率いるフン族に占領されフン族の首都が置かれました。その後6世紀にはアバール人、9世紀にはマジャール人と東方のアジア系遊牧騎馬民族が進出してきます。パンノニアは彼ら遊牧民族にとって住みよい土地だったのでしょう。マジャール人はこの地に定住しハンガリー王国を建国しました。西暦1000年国王イシュトバーン1世がキリスト教に改宗、ハンガリーはキリスト教国としてようやく認められます。ただ出自がアジア系の蛮族マジャール人という事で、西洋諸国は心の底では自分たちの仲間とは認めていなかったと思います。どこか軽侮の気持ちがなかったとは言えないでしょう。ハンガリー人もそのことは十分承知していた為コンプレックスを持ち続けました。
さて、アールパード朝は9世紀マジャール人たちを率いてパンノニアに定着した大首長アールパードを祖とするハンガリー最初の王朝でした。当初はハンガリー大公を名乗りますが、イシュトバーン1世はキリスト教改宗をきっかけに王号を称します。イシュトバーン1世から数えて21代目にベーラ4世(在位1235年~1270年)という国王がいました。ハンガリー王国はもともとマジャールの首長たちが連合した国だったため、大貴族の力が強くベーラ4世も王権伸張に苦労したそうです。
そんなベーラ4世の時代、彼にとっても王国にとっても最悪の事態が到来しました。すなわちバトゥ率いるモンゴル軍の侵攻です。ルーシー諸国(ロシアからウクライナにかけて)を席巻したモンゴル軍は部隊をいくつかに分けます。もっとも北、ポーランドに向かったのがチャガタイの第6子バイダル率いる2万で、1241年4月9日リーグニッツで国王ヘンリク2世率いるポーランド軍、ドイツ騎士団、神聖ローマ帝国の援軍2万5千を撃破しました。戦場には連合軍の死体が累々と横たわりワールシュタット(死体の森)と呼ばれるほどの大敗でした。
バトゥ(チンギス汗の長男ジュチの子)率いる本隊は、さらに三つに分かれました。北のボヘミア(現在のチェコ)からハンガリーを窺う北方軍、カルパチア山脈の南縁を通って南方からハンガリーを窺う南方軍、バトゥ自身は中央を進む中央軍を指揮します。当時、ハンガリーにはモンゴル軍に追われたクマン族(キプチャク人)の難民が多数逃げ込んでいました。ベーラ4世はキリスト教に改宗し、国王の命令に従う条件で駐留を認めますが、ハンガリー人はクマン族のおかげでモンゴル軍の侵略を受けたと憎んでおり、なんとクマン族の首長を殺してしまいました。怒ったクマン族たちはハンガリーを見限り南のブルガリアに逃れます。また、ハンガリーの大貴族たちは国王とモンゴル軍の共倒れを狙い従軍命令に従いませんでした。
ぼろぼろのベーラ4世ですが、ドイツ騎士団、テンプル騎士団の協力を取り付けようやく1万の軍勢を動員します。バトゥのモンゴル軍も各地に支隊を派遣しこの頃は1万2千くらいに減っていましたから、モヒ平原で対峙したときは兵力的にはほぼ互角になっていました。両軍はモヒ平原を流れるシャイオ川にかかる石橋を巡って戦端を開きます。1241年4月11日の事です。
モンゴル軍の得意戦術は、少数の先遣隊を派遣しわざと敗走、敵が追撃した所を隠れていた本隊が包囲殲滅するというものでした。この時も、ハンガリー軍はまんまと引っかかります。少数のモンゴル軍が敗走したのでモンゴル軍弱しと嵩にかかって攻めかかりました。ところがモンゴル軍はシャイオ川の上流と下流から別動隊を渡河させており、ハンガリー軍が正面のモンゴル軍にてこずっている間に背後から襲い掛かります。敗北したハンガリー軍は後退し、要塞化した野営地に立てこもりますが、モンゴル軍はこれを包囲、周囲から矢を射かけて削って行きました。
そのうち、包囲網の一角が開きます。ハンガリー軍はそこに殺到し何とか逃げ出そうとしました。が、これもバトゥの罠で、包囲したままだとハンガリー軍が死兵となり激しく抵抗するためモンゴル軍にも少なからず損害が出ることを恐れたからです。結局、逃げるハンガリー軍を追撃したモンゴル軍は背後から矢を射かけるだけの楽な戦となりました。この戦いでハンガリー軍と援軍のテンプル騎士団、ドイツ騎士団は壊滅、国王ベーラ4世は逃亡し、最後はアドリア海沖の孤島まで逃れたそうです。
モンゴル軍は、ハンガリー国内をすさまじい勢いで略奪して回ります。軍隊も国王もいないのですから当然です。国王を見捨てた大貴族たちも目論見が外れて大きな被害を出しました。ハンガリーの全人口の20%が失われたと言いますから恐ろしい。モンゴル軍の次の目標は神聖ローマ帝国でした。ところが、突如モンゴル軍は撤退します。モンゴル帝国の第2代オゴタイハーンが死去したからです。バトゥの遠征軍には多くの皇子たちが従軍していた為、次のハーンを決めるクリルタイに参加しなければいけなかったのでした。
こうしてヨーロッパは危機を脱します。ただ騎兵中心のモンゴル軍は、森の多い西ヨーロッパではその威力が削がれた可能性もあります。攻城戦も多くなるはずで、元寇のように失敗したかもしれません。モンゴル軍は風のようにハンガリーに襲来し風のように去っていきました。残されたのは荒廃した国土のみ。
転んでもただで起きないのがベーラ4世でした。モンゴル軍が去ったことを知ると、島から出てきて失われた領土の回復戦争を始めます。この時どさくさでオーストリア大公に奪われていた領土も取り戻したそうです。旧来の領土をほぼ回復したベーラ4世は、ハンガリー中興の祖と称えられます。モヒの戦いの際のぐだぐだぶり、その後の逃亡劇とあまり褒められた行動ではないと思うんですが、結果オーライなのでしょう(笑)。
ベーラ4世はなかなか素敵な性格をしているようで、私は嫌いではありません。