鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

政権浮揚に利用してきた反日が自分に直撃した文在寅政権の喜劇

中央日報】李容洙さん、外交部チョン長官に託す「菅首相説得し慰安婦問題ICJに提起しなければ」



 日本としては国際司法裁判所への慰安婦問題提訴は望むところ。ついでに竹島問題も一緒に審議するよう持って行きますよ。さて困るのはどちらかな?2015年の日韓慰安婦合意が今になって生きてきました。国家間の合意を一方的に破ったのも韓国なら、そもそも1965年の日韓請求権協定に違反している事実を国際社会に訴える絶好の機会です。

 文在寅政権もそれが分かっているから国際司法裁判所に提訴はできないでしょう。ところがこの自称慰安婦の戦時売春婦婆は何を勘違いしたか、自分たちに正義があると思い込みかえって文在寅政権を窮地に陥れましたな。日本としてはざまあとしか言いようがない。もともと朝鮮人に論理的思考は無理な上に、散々ついてきた嘘を今ではすっかり真実と思い込んでいるんでしょう。死んだら地獄へ落ちると思いますよ。閻魔様に舌を抜かれるでしょう。韓国社会そのものが地獄ですから、本当に地獄に行ってもかえって快適かもしれませんがねwww

 日本としては戦時売春婦婆の暴走を応援しましょう♪世界が味方に付くのははたしてどちらかな?日本は日韓請求権協定、日韓慰安婦合意を持ち出せば勝ち。今までの日本政府の弱腰対応が異常なのであって、本来ならこういう理不尽な要求は門残払いすべきでした。甘やかしてきた結果がモンスター化した韓国の現在です。日本にも責任がある。世界中に迷惑をかけるならず者国家に韓国をした責任を取って引導を渡すのも日本の責任だと思うんですよ。

 どうせ実行できはしないでしょうが、韓国が国際司法裁判所に提訴を言及した時点で韓国の国際法違反を糾弾し経済制裁すべきです。在日も全員送り返し、一切の経済文化関係を断ちましょう。通名禁止、違反したマスゴミは幹部を全員逮捕の上業務停止です。菅総理にそれが出来たら支持率爆上がりでしょうね。腰抜けには無理だと思いますが。

 戦時売春婦婆の暴走を全力で応援します。ぜひ韓国政府を滅ぼしてくださいwww

自称人権派の反日左翼はウイグル人権問題スルーを指摘されるのが本当に嫌なんだな

【そんな事よりウイグルが~】保守派のお家芸ウイグル話法」とは何か? ~進歩派リベラルは中国に甘い、という誤解



 シナ共産党政府によるチベットウイグルでの深刻な人権弾圧に対し非難してきたのは我々保守ですよ。その間反日左翼どもは何をしてきた?人権派を自称するなら最も強くシナの暴虐を非難しなければならないし、シナに対する経済制裁と取引禁止を訴えるのが筋じゃないのか?ところが、奴らは日本国内での些細な人権問題には基地外のように嚙みつくのにシナの人権弾圧はスルーですよね。恥という概念がないのだろうか?

 平和運動もそう。日本がちょっとでも国防力を上げたり日米安保に基づく日米の軍事協力には猛反対するのに、現在進行形でシナに侵略されている尖閣南シナ海でのシナの侵略に反日左翼どもが非難の声を上げたというのは聞いたことがない。竹島も韓国に侵略されたままなのだから、本来なら自称リベラル側こそ韓国に対する経済制裁や国交断絶を主張すべきじゃないのか?

 反日左翼の活動資金がどこから出て切るのか丸わかりですね。連中は日本政府を叩いたり日本国民を貶めるための手段として人権を利用しているだけ。一番人権弾圧しているシナをスルーする卑劣なダブルスタンダードには反吐が出ます。ただ、さすがに恥知らずの反日左翼でもウイグル問題を指摘されるのが嫌なのか、本当は自分たちも非難していたと醜い言い訳をしています。本当にそうなら今からでも遅くないぞ。どうぞ日本政府や日本国民を叩く以上にシナを非難してみたらどうだ?できるものならなwww

 日本政府も甘すぎますよ。奴らは日本国体破壊を目論む言論テロリストなんですから、スパイ防止法制定なり外観誘致罪適用なり厳しい処断をすべきですよ。事なかれ主義で何もできないから反日左翼どもに舐められるんです。シナやロシアなら政府批判は命がけ。日本もそうすべきでしょう。欧米でも国旗侮辱罪などは逮捕されますよ。日本が当たり前の国家になったら、反日左翼など生きることが出来なくなります。

 反日左翼は人間ではない。日本を敵視しシナに媚びる恥知らずの国賊は物理的に一掃すべきだと私は思います。

佐賀三支藩と竜造寺四家の人口

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 全く一般受けしないマニアックなネタで恐縮ですが、最近の佐賀藩シリーズの元ネタである『佐賀県の歴史』(山川出版)に貴重な資料が出ていたので書き写しました。

 三支藩とは佐賀藩の公式初代藩主鍋島勝茂が自分の子供たちを封じた支藩、親類同格はいわゆる竜造寺四家のことです。藩主鍋島氏の旧主家で佐賀藩成立の過程からも非常に気を遣わなければいけない家でした。ちなみに諫早家は他の三家が竜造寺隆信の子や弟が家祖なのに対し、隆信の祖父家純の弟和泉守家門に始まる家系で、諫早家を興したのはその孫家晴でした。

 諫早家は裕福で有名で、島原の乱の起こる直前、領主松倉家の暴政に苦しむ領民が隣国諫早領に逃散しようとしたほどだったそうです。これが逆に藩主松倉勝家を激怒させ、ますます弾圧を強めたとも言われます。上の表を見ると諫早家の豊かさが分かりますね。表高はわずか二万六千石あまりなのに、人口は5万人以上います。これは七万石の三支藩筆頭小城藩を凌ぐほどです。

 幕末期、諫早家の内高(実際の石高)が十万石あったとされるのも納得です。気候の厳しい東北地方と違って暖かい西国では大体人口の倍近く米の収穫があったと言われます。表高は幕府が軍役や参勤交代の格式などを決めた石高で、実際の石高である内高と差が大きければ大きいほどその藩は豊かだと言えます。逆に表高と内高の差がほとんどない藩(代表は御三家の一つ水戸藩)は領民の負担が重く一揆が激増したそうです。

 おそらく三支藩は参勤交代も独立して行っていたでしょうから経済的負担は大きかったと思います。一方、親類同格の竜造寺四家は定められた表高分人数を差し出すのみでしたから、諫早家は特に軽い負担だったろうと想像します。生きるか死ぬかの瀬戸際だった島原藩の領民からしたら、自分たちと違い豊かで余裕のある生活をしていた諫早家の領民は羨望の的だったんでしょうね。

 江戸時代の領民はどこに生まれるかで天国と地獄だったんでしょう。運って本当に大事だなと思いました。

 



 

追伸:

 親類のうち久保田家も竜造寺一門です。家祖は竜造寺政家の次男村田安良。兄高房(名目上最後の竜造寺家当主)は非業の最期を遂げたのに久保田家が成立したのですから隆信の嫡流は残ったことになります。ちなみに武雄家も竜造寺隆信の子で後藤家に養子に入って継いだ後藤家信が家祖ですから隆信の子孫は意外と繫栄しましたね。

 こうなると佐賀の化け猫騒動はお門違いも甚だしいという事になります(苦笑)。参勤交代とか軍役とか天下普請とか面倒なことはすべて鍋島家に押し付けられたんですから、むしろ勝ち組でしょう。

世界は人権弾圧をするシナ共産党政府糾弾へと動いているぞ。日本はどうするんだ?

【英国のラーブ外相】中国を批判 「新疆の状況は常軌を逸している。 拷問や強制労働、女性への不妊手術強制など虐待は度を越している」
【カナダ下院】2022年北京冬季五輪の開催地変更を求める修正案採択

 シナ共産党政府は必死で隠蔽してますが、ウイグルチベット、そしておそらくは内モンゴルで行われている深刻な人権弾圧。民族教育を禁止し母国語を教えないなどは軽いほう。不当な拘束や強制労働、はては拷問、女性に対する強姦、男女問わず断種手術、嫌がる女性に漢族の子供を産ませ強制的に民族浄化をするなど、およそ考えられるすべての人権弾圧を行っています。

 欧米ではようやくシナの正体を知って激しい非難を始めました。人権弾圧を行うのはオリンピック精神とは真逆だとして北京冬季五輪のボイコットという声も上がっています。人として当然の動きだと思います。ところが日本では政府もシナ批判には消極的だしマスゴミはシナの悪行を隠蔽し、売国野党も完全スルー。森さんの発言を女性蔑視だとあれほどバッシングしているにもかかわらず、発言どころか世界で一番人権弾圧を行っているシナには一言も文句言わないという最悪のダブルスタンダードを平気でやっています。

 こいつらには恥という概念はないんだろうか?人権云々以前に人としての心はあるのだろうか?と呆れ果てます。売国野党は偽装帰化人ばかり、マスゴミも大半が半島由来か、共産主義にかぶれすぎて精神が半島や大陸人になってしまった非国民ばかりになり下がりました。経済界はシナと商売をしたいために人権問題は見て見ぬふりです。

 ところが面白いことに、欧米でウイグル人虐待にかかわっている企業との取引停止という動きが出てきたため、シナと商売している馬鹿企業どもは今頃になって慌てています。いくらシナは世界最大の市場と嘯いても欧米と取引できなくなったら潰れますからね。むしろ見せしめに有名企業の幾つか潰れれば良いとすら思いますよ。バイデン政権はシナとずぶずぶですが、新型コロナで50万人もの死者を出したアメリカ国民が許さないでしょう。米国民の意向を受けて民主党共和党関係なく議会はシナに対し強硬です。最終的には人権を大義名分に戦争になるかもしれません。シナもバイデン政権を舐め切って台湾軍事侵攻に踏み切る可能性があります。

 どちらにしろ世界は激動の時代に入ったのは確か。日本が生き残るためには韓国のような蝙蝠外交では駄目。はっきりと欧米に付くしかない。我々国民も覚醒し、人権問題をスルーしシナに異常に甘いマスゴミなど反日左翼どもの動きを厳しく監視しなくてはなりません。奴らは特亜の工作員であり粛清対象です。日本国内の獅子身中の虫を退治しないと日本の未来はないと確信します。手始めは欧米と歩調を合わせて北京冬季五輪ボイコットです。

 皆さんはシナの暴挙とそれを擁護するマスゴミ売国野党、自称人権派などの卑怯な態度、どのように思われますか?

鍋島閑叟(かんそう)の改革と三支藩との確執

 鍋島直正(1815年~1875年)、号して閑叟。幕末佐賀藩の実質的最後藩主です。形式上は1861年隠居し藩主の座を息子直大(なおひろ)に譲っていますが、実験は握り続けました。徳川幕府最後の将軍慶喜は維新後述懐します。「長州は最初から敵だったから憎くはないが、薩摩は途中で裏切ったから嫌いだ」その中で、幕末期の各大名の評も残っています。鍋島閑叟に関しては「狡い人である」というものでした。

 佐賀藩鍋島家は成立の経緯から幕府に異常なまでに気を使い天下普請に積極的に人と金を出すなど涙ぐましい努力をしてきました。これに加えて旧主竜造寺家の力を削ぐために設けた小城、蓮池、鹿島の三支藩が幕府から勅使饗応役に選ばれるなどただでさえ火の車の台所が破滅的な状況になった時に、直正は藩主の地位に就きます。三支藩の石高は本藩である佐賀藩の内高から出ていたため佐賀藩が負担せざるを得なかったのです。

 もちろん佐賀藩は、天文学的な赤字を解消し少しでも収入を上げるために有明海の大規模な干拓をするなどいろいろな事をやっています。が、あまり効果があったとは言えません。いくらか収入が増えても、出費は増大する一方でした。藩主の座に就いた直正が最初に手を付けたのは中央集権化です。あまりにも三支藩や竜造寺四家(親類同格)の力が強すぎたために思い切った改革ができないと思ったのです。西洋技術を取り入れ富国強兵策を打ち出した直正はアームストロング砲を導入し洋式軍隊を整備しました。

 三支藩に対してもあからさまな圧迫策に転じます。天保13年、幕府が蓮池藩主を寺社奉行に任命しようとしたのを猛烈に反対し潰しました。嘉永4年には鹿島藩主鍋島直彬(なおよし)が幼少で病弱だという理由で廃藩を企てます。これは三支藩すべての反対で失敗しました。支藩も家臣団があり廃藩されたら路頭に迷うからです。人間誰しも既得権益を奪われそうになったら猛烈に抵抗します。いったんは廃藩をひっこめた直正でしたが、腹いせに幕府に運動して鹿島藩の公務を停止し参勤交代も無くさせました。まもなく他の二藩にも適用します。これだけなら三支藩は名目上の格式はともかく負担が減るので大歓迎でしたが、直正はこれまで参勤交代の費用という事で免除していた献米を復活させるなど統制を強化します。さらに佐賀藩福岡藩と交代で担当していた長崎防備への負担すら三支藩に求めたのです。

 直正は、農地改革にも取り掛かります。小作農を保護するため地主の取り分を減らしました。ただ年貢の額は変えなかったので地主が一方的に損をするだけでした。このように直正の改革は犠牲無くしては成り立たないもので、各所から恨みを買ったと思います。そこまでしなければ天文学的な赤字を減らすことはできなかったのでしょう。直正は磁器、石炭、楮(こうぞ)、櫨(はぜ)などの特産品生産にも力を入れ上方で売りさばくだけでなく、海外貿易にも手を出します。世間の人は直正を算盤大名と揶揄しますが、本人は反論したい気分だったでしょう。

 これで佐賀藩の累積赤字がどれだけ解消したかは分かりませんが、佐賀藩を幕末雄藩の一つに押し上げたのはまさに直正の改革のおかげでした。

勅使饗応役と赤穂事件

 前記事で佐賀藩支藩である小城藩蓮池藩鹿島藩が次々と江戸幕府から勅使饗応役に任ぜられ支藩の石高も本藩である佐賀藩の内高に含まれていたため、ただでさえ窮乏していた藩財政が負担激増で破綻寸前になったと書きました。勅使饗応役といえば有名な赤穂事件、浅野内匠頭が饗応の指南役である高家肝煎吉良上野介に賄賂を贈らなかったため苛め抜かれついに刃傷沙汰になったことを思い出しました。

 江戸幕府は、天皇の使者である勅使をもてなすため4万石から7万石程度の外様大名に饗応役を命じたそうです。一方院使饗応役というのもありこちらは1万石から3万石程度の陣屋(城を持たない)の外様大名を任命しました。前記事の元ネタの『佐賀県の歴史』(山川出版)では勅使接待役と書かれていましたが、蓮池藩(5万石)、小城藩(7万石)はともかく、2万5千石の鹿島藩はもしかしたら院使饗応役の方だったかもしれません。

 では勅使饗応にどれだけの費用が掛かったかですが、有名どころの播州赤穂藩の例だと、直接の費用だけで1200両もかかっています。実は事件の起こった勅使饗応役に赤穂藩が任ぜられたのは二回目で、前回700両で済んだのでこれくらいだろうと思っていたところ、指南役の高家肝煎吉良上野介から物価上昇で1200両要ると言われてキレたのも原因の一つだと言われています。これに加えて饗応役の大名家は指南役に指導料として400両という大金を贈るのが通例でした。しかし質実剛健浅野内匠頭は、お礼に鰹節二本程度の質素な贈り物で済ませたため、常識がない田舎大名という事で吉良に嫌われたという話もあります。さすがに鰹節二本という事はないと思いますが、浅野内匠頭からしたら賄賂、吉良上野介からしたら饗応役として恥をかかないように教えてやった謝礼という認識の違いはあったのかもしれませんね。

 勅使饗応役は徳川家の体面を保つためにそれ相応のレベルの接待をしなければならなかったため、完全持ち出しの外様大名にとっては迷惑この上なかっただろうと同情します。これも幕府の外様大名統制策の一つだったのでしょうが、自分のことなので費用くらいは饗応役の大名に援助してやっても良かったと個人的には思います。最終的に恥をかくのは幕府であり徳川将軍家なんですから。

 そして財政的負担がなかったら赤穂事件も起こらなかったと思えば、将軍家と江戸幕府の罪は重い。謀反の恐れがあるから20万石以上の外様雄藩の経済力を削ぐのは良いとしても、7万石以下の弱小大名をいじめても何の得にもならないと思いますがね。逆に将軍家に対する忠誠心が薄れるかもしれませんよ。

鍋島勝茂の覚悟と佐賀藩の悲劇

 鍋島勝茂(1580年~1657年)と言えば公式には肥前佐賀藩36万石の初代藩主です。というのは父鍋島直茂(1538年~1618年)は実質的な藩主ではあっても公式には竜造寺家の執政という立場でした。直茂は竜造寺隆信の義弟で隆信の北九州制覇に活躍した武将です。沖田畷の合戦で島津氏に敗れ隆信が討ち死にすると、存亡の危機の竜造寺家を支え豊臣秀吉にいち早く恭順し本領安堵を勝ち取りました。ちなみに竜造寺は龍造寺が正式名称なんでしょうが、高橋克彦の竜の柩で龍の古語が竜だと知って以来こちらを使っていますので悪しからず。

 隆信の跡を継いだ子の政家は凡庸で、直茂が秀吉の命令で龍造寺家の家政を見るようになりました。これは江戸幕府になっても引き継がれ、政家隠居後跡を継いだ高房は、飾りだけの藩主であることに我慢できず激高して自害します。病弱だった政家も落胆しまもなく亡くなったため竜造寺嫡流が断絶しました。江戸幕府は竜造寺一族を江戸に呼び寄せ後継者を誰にするか協議させます。その結果、実質的な藩主であった直茂の息子勝茂が正式な藩主となったという経緯です。1607年のことでした。

 このような経緯から鍋島家は旧主家竜造寺一族に気を遣わなければいけなく、竜造寺一族を親類同格という異様な体制で取り込むという無理をしました。さすがにこれでは藩が立ち行かないので、竜造寺一族に領地を半分差し出させ合計8万石ほどに削減します。それでも36万石のうち8万石ですから4分の1を取られていました。

 勝茂には負い目がありました。というのも関ヶ原で西軍に与し伏見城攻めや安濃津城攻めに参加するなど主力の一角となっていたからです。国元で中立を保っていた父直茂は、黒田長政の仲裁でいち早く家康に謝罪し本領安堵を許されます。ですから関が原後、西軍に与した筑後柳川の立花宗茂を幕府の命令で攻めるとき何と3万人もの兵力を動員したくらいです。通常の軍役は1万石につき250人程度。無理をして300人ですから36万石(関ヶ原当時は30万石、検地をし直して35万7千石になった)なら1万人前後がせいぜい。当時の佐賀藩領の人口は20万人もいなかったはずですから、成人男子のほとんどを動員した形です。

 大坂冬の陣にも大兵(おそらく1万以上)を率いて参加、勝茂晩年に起こった島原の乱(1637年~1638年)でも勝茂は3万5千人という異常な数の兵力で幕府軍に参加しています。その他、幕府に気に入られるため各種の普請にも積極的に人と金を差し出しました。こういう無理に無理を重ねれば藩政が立ち行くはずもなく1649年の段階で1万5千貫という莫大な借銀があったそうです。

 勝茂は、借銀の半分を無利息の分割払いにし残り半分は踏み倒すという暴挙に出ました。領民に苛斂誅求が行くのは当然で五公五民なら良いほう、六公四民という一揆が起こらないのが不思議というくらいの状況もあったそうです。ですから36万石という豊かさでありながら藩政は破綻寸前だったと言います。

 勝茂は鍋島家の力を強めるため、自分の息子たちを領主とする蓮池藩小城藩鹿島藩という支藩を設けます。その他、一族や重臣に多くの領地を割いたため藩主の直轄領はわずか6万石しか残りませんでした。勝茂死後も佐賀藩の悲劇は続き、三支藩が勅使接待役に任ぜられると支藩領は佐賀藩本領に含まれていたためその分の負担も加わります。

 幕末になると、ほとんどの大名家は莫大な借金を負いますが。佐賀藩の場合は成立の経緯から最初から台所は火の車だったのです。幕末期、藩政改革に成功し借金を返済し莫大な蓄財をした薩摩や長州が維新を主導することになったのは当然だったのかもしれません。土佐と佐賀はまさに人材の力でそれに伍するようになったのですから、ある意味凄いのでしょうね。