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春秋戦国史11  楽毅と田単(後編)

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 楽毅の成功は燕の昭王を非常に喜ばせました。一時は斉に攻め込まれて父王を殺され滅亡寸前になり長年惨めな属国を強いられていたのですから、逆に今斉を滅亡寸前まで追い込んでいる楽毅には感謝してもしきれない思いだったでしょう。隗より始めた効果は確実にありました。燕は、春秋時代戦国時代を通じて弱小国でしたがこの成功だけで戦国七雄の一つに数えられることとなります。昭王は斉の陣中に赴き兵士を労いました。楽毅にも昌国君という最高の栄誉を与えます。この「君」というのは戦国時代に登場した位で、王の下の諸侯を意味します。各国の君主が王を自称したために初めて登場したものでした。

 楽毅は本陣を斉の首都臨淄に置き、各地に軍を派遣して諸城を攻略させます。その中で最後まで残ったのが湣王が殺され襄王が立った莒と即墨でした。莒は住民が王と一丸となって守っているので容易に落ちそうではありません。そこで燕軍はまず即墨を攻略すべく主力を差し向けました。

 燕の大軍の来襲を受けた即墨では太守が打って出ますが、地方軍では歴戦の燕軍に敵うはずもなく簡単に撃破され太守は戦死します。即墨の民衆は驚き恐れますが、覚悟を決め一人の人物を将軍に選出します。彼の名は田単(生没年不詳)といいました。

 田単はその名前の通り斉の王室である田氏の一族です。ただしかなりの傍流だったらしく本人は首都臨淄の市場を監督する役人だったと伝えられます。何事もなければ下級官吏として一生を終るはずでした。ところが燕軍の侵攻を受け臨淄の人々は戦乱をさけるため地方に避難します。その際、馬車の車軸が閊えて道は大混雑しました。田単は家族に言いつけ馬車の車軸の出っ張っている部分を切り取らせ鉄で包みます。おかげで田単の一族は無事に逃げる事が出来ました。これを見ていた即墨の人たちは田単を智者だと評価したのです。

 人々の推薦で将軍となった田単でしたが、もともと非凡な才能があったのでしょう。即墨の人たちを指揮して頑強に抵抗し、燕軍は攻めあぐみます。そんな中のBC279年燕の昭王が急死し恵王(在位BC278年~BC271年)が即位しました。恵王は太子時代から楽毅とは不仲で、それを聞いた田単は間者を放って「莒と即墨がいつまでも落ちないのは、楽毅がわざと遅らせているのだ。楽毅は斉で自立し王になるつもりだろう」と流言を流させます。

 これを信じた恵王は、楽毅を解任し後任に騎劫(ききょう)を送りました。九分九厘勝っていた戦を自ら放棄するのですからここまで愚かな王は居ません。楽毅は、帰国すれば王に誅殺されると将来を悲観し趙に亡命します。趙はこれを歓迎し、燕・斉との国境に近い土地に封じ望諸君としました。怒った恵王は楽毅を討伐しようとしますが楽毅から先王に対する忠誠心と讒言で処刑されては先王を辱められる事になるから亡命したという心情溢れる手紙を受け反省します。恵王は楽毅の息子楽間を父と同じ昌国君に封じ和解しました。楽毅はその後趙と燕で客卿(外国人の卿)となり最後は趙で没したそうです。趙の恵文王時代に活躍した将軍楽乗は楽毅の一族(甥?)だとされます。

 一方、即墨では現在進行形で戦いが続いていました。反間の計で最大の難敵楽毅を排除したものの即墨包囲は続きます。田単はある時「燕軍が城外にある墓を掘り起こして先祖を辱める事が一番恐ろしい事だ」と噂させました。燕軍がその通りに実行すると、これを見た即墨の人たちは燕軍に対する敵愾心を増します。田単はまた即墨の富豪たちから財宝を拠出させ燕軍の将軍たちに賄賂しました。そして「即墨がもし陥落したら私たちの家族だけは無事に済むよう取り計らい下さい」と言わせます。燕の将軍たちは即墨が間もなく陥落するだろうと喜び油断しました。

 籠城が数カ月続き残りの食料が尽きかけていた頃、田単は城中から千余頭の牛を集めさせます。牛の角には刀を結び尾に藁を束ねて油を注ぎました。そして城壁に50の穴をうがち、そこを出撃口として夜陰に乗じ牛を放ちます。藁束には火がつけられ、その後ろを田単率いる五千人の壮士が続きました。牛は尾が熱いので狂ったように奔り出し燕軍の陣中に突入します。すっかり油断していた燕軍は大混乱に陥り、牛の角とそこにつけられた刃のために傷つきました。そこへ田単率いる斉軍が突入したのです。燕軍が支えられるはずもなく、潰走します。燕の上将軍騎劫は乱戦の中で討ち取られました。

 田単が逃げる燕軍を追撃すると、それまで燕軍に支配されていた都市はことごとく寝返り燕の守備兵を殺して開城します。勢いを増した田単軍は首都臨淄をはじめ七十余城ことごとくを奪回しました。田単は莒から襄王を迎えます。この功績により田単は宰相に任じられました。一時は滅亡寸前だった斉は田単の活躍によって再び力を取り戻します。一方、絶好の機会を逃した燕は衰退する一方で、ついにはBC222年秦に滅ぼされるのです。


 次回は、戦国時代の天王山ともいうべき長平の戦いを紹介します。