摂政藤原良房の後は養子(兄長良の三男)基経が継ぎました。良房が没した時にはすでに右大臣の顕官で権力移譲もスムーズだったため取り立てて彼の治世に見るべき業績はありません。清和・陽成・光孝・宇多四代に渡って摂政・関白を勤めます。
ところがこのあからさまな外戚人事はさすがに世の指弾を浴び、三代前の仁明天皇の皇子時康親王に皇位が回ってきました。55歳、政治に何の野心もない老皇族を天皇にして一時的に世間の批判をかわそうという考えでした。
基経らは、新たな天皇を決めるため会議を開きます。そしてどうやら光孝天皇が第七皇子の源定省(さだみ)を秘かに皇嗣にしたかったらしいという意をくんで次の天皇に推戴することとなりました。臣籍降下していたことは問題にしようと思えばできました。実際光孝天皇即位の際にも嵯峨源氏の源融(とおる・嵯峨天皇の12男)が冗談交じりに「私にも皇位継承の資格がある」といって基経に睨まれた過去がありました。
藤原摂関家には不幸なことに、そして皇室にとっては幸いなことに基経の嫡男時平はこの時21歳。従三位ではあってもまだ参議にもなっていませんでした。藤原摂関家のホープとして果断な性格、英才の誉れ高く期待されていてもこれでは朝廷内で権力がふるえません。摂関政治にとっては最大の危機、皇室にとっては千載一遇のチャンスが巡ってきたのです。
宇多天皇は、親政をはじめました。まず時平を参議に据えるのは仕方ないにしても同時に源興基ら源氏を多く登用し互いにけん制させる事で皇権強化を図ります。
さらに代々学者の家柄であった菅原道真を起用したのも彼でした。
道真の異数の出世を横目に着々と実力を蓄え機会を待つのが時平の戦略でした。
ところが901年時平は大納言源光を味方に引き入れ道真追放のクーデターを企てます。学者の家系である道真の出世はいくら有能であっても摂関家はもとより他の門閥貴族にとっても許しがたい暴挙でした。貴族たちに憎まれていた道真にとって唯一の拠り所は宇多法皇(899年出家)の庇護だけでした。
道真は同じ日、護衛をつけられ京の都を追放されます。彼の息子たちも官職を解かれそれぞれ別のところに配流されました。
二年後の903年、道真は遠く大宰府の地で波乱の生涯を閉じます。享年59歳。
時平は、こうして朝廷内の権力を一手に握る存在となりました。自分の妹穏子(おんし)を醍醐天皇の妃とし次代への布石としました。
時平は摂政関白にこそ就任していないもののそれと同等以上の権力を握って政治に当たりました。時平は別に悪辣なだけの人間ではありません。藤原摂関家では珍しく統治にも意欲を示し彼の治世は後に延喜の治と呼ばれるほど安定しました。
しかし、909年時平はわずか39歳で死去します。これを無実の罪で陥れられた菅原道真の祟りだと世間は噂しました。