こういう統治体制では地方に注意が向く事はなく多くの天変地異にも何ら有効な処置はできませんでした。930年清涼殿に雷が落ちるというショッキングな事件が起こります。さまざまな天変地異を無実の罪で失脚させられ無念の思いで亡くなった菅原道真の祟りと世間では噂しましたから、醍醐天皇にとっても落雷は非情なショックでした。衝撃を受けた醍醐天皇は寝つき、他の病気も併発したため同年9月、皇太子寛明(ひろあきら)親王に位を譲りました。その7日後、醍醐天皇は崩御します。享年46歳。
朱雀天皇は即位するとすぐ年号を承平と改めました。災害の多かった醍醐期と違い平和な世の中の到来を人々は希望します。
しかし地方の疲弊は極限にまで達しつつありました。律令制は崩壊し、貴族たちは競って荘園を経営します。国司たちは地方に赴任しても善政を敷くよりもひたすら自分の財産を増やすことに専念しました。一度国司になると一財産できるとまで言われたほどです。
一方、地方の豪族は自分たちの開発した土地を国司たちに収奪されないために摂関家など中央の有力貴族に寄進しその荘官となることで対抗します。国衙の役人や盗賊に対抗するため地方豪族は武装化していきます。これが武士の始まりです。
時代は彼らを中心に回っていきます。ですから今後は二人を中心に見て行きましょう。
将門は、父を早く亡くしたため京にでて摂関家に出仕していたのを辞し郷里に帰りました。ところが父の土地は国香ら叔父たちに横領されていたのです。最初は話し合いで土地を返してもらおうとしますが、国香らは言を左右にして応じようとしませんでした。
劣勢の将門は、持ち前の武勇でこれを撥ね退け国香を戦死させます。その後は長男で将門とは幼馴染の貞盛が立ち良兼らと組んで将門と戦いました。
これだけなら一族内の争いにすぎませんでしたが、将門の武勇が関東で評判になると藤原玄明(はるあき)ら国司と争いごとを起こした者たちが彼を頼って逃げ込みます。将門は持ち前の義侠心からこれを保護し、国司の引き渡し要求も拒否しました。
関東の騒乱は都でも問題になりました。935年源護の訴えを受けた摂政忠平はかつての家人将門と源護双方を都に召喚します。
将門はこの時堂々と陳弁し、朱雀天皇が15歳に達し元服した祝いの恩赦で無罪放免になりました。この事は逆に将門の評判を高めることになります。将門の周囲には国司と争ったり朝廷に不満を持つものが続々と集まり始めました。のちの大反乱の芽はすでに生まれていたのです。
一方、藤原純友とはどういう人物だったでしょうか?長良流といいますから摂関家とも非常に近しい一族のはずでした。ところが長良流では良房の養子になった基経の子孫だけが繁栄しそれ以外の一族は没落していたようです。
純友の父良範も太宰少弐という低い身分で終わりましたし、自身も伊予掾(国司の三等官)という程度でした。もともと剛毅な性格の純友にはこの事が我慢できませんでした。その頃瀬戸内では海賊が横行していました。純友はそれらを取り締まる役目でしたがいつしか海賊たちと深い関係を結ぶようになります。
純友は朝廷に対し強い不満を持っていました。そこで任期が終わっても都に帰らず海賊たちの首領となります。
純友の海賊団は伊予沖の日振島に根拠地を置き、瀬戸内海を航行する船を襲いました。これには朝廷も困り果て海賊討伐令を発します。ところが純友の勢力は大小の海賊を吸収し千艘の船を持つ集団にまで膨れ上がっていて、とても地方の国司程度の勢力では太刀打ちできなくなっていました。
936年、朝廷は名官吏といわれた紀淑人(きのよしと)を伊予守に任命し海賊の平定に当たらせます。
はたして紀淑人の政策は成功したのでしょうか?後編では純友、将門の戦いを描きます。