藤原摂関家といいながら有名どころの道長・頼通をあえて描かなかった同シリーズ。それにはわけがありまして、彼らの出世は門閥と類い稀なる幸運で成ったものでもし別の人物でも同じ条件なら似たように出世しただろうと私が判断したからです。
ですから時平のように、摂政関白には就任していなくても重要な役割を果たした人物は取り上げますし、本記事の能信(よしのぶ)のように事実上藤原摂関政治にとどめを刺した人物などは興味を持って取り上げる次第です。
一方、能信の母は源明子でした。どちらも権門の娘ながら能信の母明子は父を早くに無くしていたため倫子の子供たちと差がつけられたのです。
頼道らは、倫子の邸宅のあった地名から鷹司殿と呼ばれ、能信らは明子の邸宅のあった土地から高松殿と呼ばれます。
他の下級貴族から見れば権大納言など目がくらむような出世ですが、異母兄弟たちとあからさまな差をつけられると人間我慢ならないものです。
能信の兄頼宗は積極的に鷹司殿に取り入って晩年に内大臣の地位を得ますが、能信は強烈な対抗心を持って決して慣れ合わなかったそうです。
能信は、中宮大夫(皇后の世話をする役職)の仕事に一生を捧げます。同じ道長の娘で三条天皇の中宮になりながらもついに皇子を生まなかった妍子(けんし)の忘れ形見禎子内親王(ていしないしんのう)の世話に一生を賭けたのです。
能信は、禎子の不幸な境遇に自分を重ねていたのでしょう。誰も見向きもしない彼女の面倒を見、成長すると後朱雀天皇と結婚させます。
ところが頼通らが送り込んだ娘たちは不思議と男子を産まず、後継ぎの心配がなされます。
能信は、1045年後朱雀天皇が病気で明日をも知れぬ時をとらえて、中宮大夫の職を最大限に利用して天皇に進言します。次の後冷泉天皇の皇太子には尊仁親王を選ばれるようにと。これができたのは天皇に信任されていた事も大きかったでしょう。
異母兄頼通らを出し抜く形で後朱雀の許可を得、無事に尊仁親王を皇太弟にする事が出来たのです。
しかし、後冷泉天皇は即位したのが21歳。まだまだ長生きするのは確実だと見られていました。関白頼通らは天皇に自分たちの娘を嫁がせ、皇子を産ませればさっさと尊仁を廃嫡すればいいだけと歯牙にもかけませんでした。
ここらあたり能信の賭けだったのでしょう。かつて皇太弟尊仁親王の将来性は真っ暗で、誰も娘を嫁がせようとしませんでした。困り果てた能信でしたが、尊仁に意向を聞いてみると能信の養女で幼馴染の茂子で良いとの事。
能信自身も茂子の後を追うように1065年死去しています。享年71歳。ですから能信は後三条天皇の即位もその子貞仁の即位も見ていなかったのです。
後年、白河は能信の事を語る時敬意をこめて「大夫どの」と呼んだそうです。