「鳴くよ鶯(うぐいす)平安京」で平安遷都は794年だと皆さんご存じだと思います。
多くの困難を克服し、在位14年目にしてやっと実行できた大事業だったのです。同時に彼は反乱を起こした蝦夷の征服という大仕事もやっています。
彼の治世が日本にとって良かったのか?悪かったのか?それは読者それぞれが判断してもらうとして一代の英傑だった事は間違いありません。そんな古代日本に強烈な個性を放つ桓武天皇の生涯を追っていく事にしよましょう。
しかし770年天武系最後の天子称徳女帝が53歳で没すると、女帝の寵愛を笠に着て暴虐の限りを尽くしていた悪僧弓削の道鏡は宮廷クーデターによって追われ、あらゆる権力を奪われて下野に流されます。道鏡に気脈を通じていた一派もことごとく追放されました。
中でも藤原式家の百川(ももかわ)は、舞台裏で暗躍しついに白壁王を皇位に就けることに成功します。すでに老境に達し毒にも薬にもならない白壁王でしたが、彼の御子山部王(やまべおう)の英邁を知った百川が全力で後押しした結果でした。
光仁天皇が息子の山部を皇太子にできなかったのは、話し合いで擁立されたという負い目と遠慮があったのでしょう。皇太子には天武系の井上内親王を母に持つ他戸(おさべ)親王を据え、渡来系の高野新笠(たかのにいがさ)を母に持つ山部はそのまま据え置かれました。
しかし、次第に朝廷内で権力を握りはじめた藤原百川は皇后井上内親王と皇太子他戸親王が光仁天皇を呪い殺そうとしていると無実の罪を着せ、大和国宇智郡に護送し幽閉してしまいます。母子は三年後の同じ日に死んでいます。その不自然さから百川に毒殺されたという説も有力です。
こうして、百川の推す山部が皇太子となります。百川は娘旅子を山部の夫人とし外戚として大きな権力を握るという野望を持っていました。
光仁天皇の治世に見るべき出来事はありません。ただ晩年、蝦夷で大規模な反乱が起きそれを鎮圧できないままその短い治世を終わります。皇太子となった山部は、百川と組んで次の自分の治世のための体制固めを行いました。
百川は権力を独占するために同族の藤原一族でも容赦せず陥れました。山部のライバルになるであろう天武系の皇子たちを粛清し、それに連座する形で朝廷の反対派を次々と処刑します。藤原京家の参議浜成(はまなり)もこの時失脚した一人です。以後藤原四家のうち京家は没落しました。
桓武天皇が即位した時、百川はすでに亡くなっていました。779年従三位式部卿兼中衛大将で没します。もし桓武即位まで生きていたら外戚として史実より早く摂関政治が始まっていたかもしれません。後783年右大臣を追贈。823年百川の娘旅子の産んだ淳和天皇(百川の孫)が即位するとさらに従一位太政大臣を追贈されました。
即位した桓武天皇が最初に取り組んだのは蝦夷の反乱鎮圧です。蝦夷の地(現在の東北地方)は朝廷の悪政で疲弊していました。赴任した国司はひたすら蝦夷の人々から収奪する事しか考えていなかったのです。朝廷で定められた租庸調以上の重税を課し、差額を懐に入れいていたそうです。これでは蝦夷の人々はたまりません。反抗したら殺されます。
彼の新都構想を支えたのは百川の甥種継。天皇は種継を造営官に任命し新しい国都を建設させます。784年のことです。
そんななか785年、造営官の種継が暗殺されるという大事件が起こりました。寵臣を殺されて激怒した桓武は犯人を捜します。そしてどうやら皇太弟早良親王の関係者らしいと分かると春宮職を務める古代豪族の佐伯、大伴氏を中心に事件に関与したとされる者たちことごとく処刑しました。
累は早良親王にも及びます。親王は太子の位を剥奪され淡路国に流罪と決まりました。早良は兄に無実を訴えますが聞き届けられず、早良は食事を断って無言の抵抗を示します。移送途中、淀川の高瀬橋のほとりで早良親王は憤死しました。しかし遺体はわざわざ淡路国に運ばれそこで埋葬されます。
大伴家持も早良親王と昵懇であったことから疑われます。蝦夷の地で反乱鎮圧に苦労するかつての老歌人は事件の発生した25日前に亡くなっていました。桓武は家持の死後、すべての官位を剥奪して庶民に落とすという心ない仕打ちをしています。
人心は荒廃し、決して平安の都とはいえない現状でした。