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「囲魏救趙の計」の軍事的考察  机上の空論とならないために…

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 世に「趙括(ちょうかつ)の兵法」という言葉があります。これは理論だけは優れていてもいざ実践する時に応用できず大失敗することの例えです。
 
 趙括に関しては以前記事に書いたので参照してください。
 
◇趙奢と趙括   父と子の相克   (前編)
 
◇趙奢と趙括   父と子の相克   (後編)
 
 
 ところで、中国中世に成立した兵法書「三十六計」の第二に囲魏救趙の計というものがあります。これは趙括の時代よりずっと前、魏と斉が戦った桂陵の戦いをもとに作られたものです。
 
 簡単に説明すると魏が趙を攻めた時、趙は隣国斉に救援を求め、斉軍が直接趙救援に向かわず、魏の本国を攻めたので、魏軍が趙の囲みを解き結果的に趙を救った歴史をもとにしています。
 
 あわてて本国に帰ってきた魏軍を、斉軍は桂陵というところで待ち伏せ散々に撃ち破りました。
 
 実はこれも記事にしています♪
◇「龐涓この樹の下にて死せん」 - 孫臏兵法 -
 
 
 
 前置きが非常に長くなってしまいましたが、この計略が成功するためにはいくつかの前提条件が必要だと思うのです。私が考えた条件をざっと挙げれば
 
①A国とB国の軍隊の行軍速度がほぼ同じである事。
 
②A-B間の距離、A-C間の距離がほぼ同じか、A-B間の距離の方がより近くなければ成立しない。
 
③A国がC国を救援するために攻めるB国のある地点は、B国にとって重要で、もし奪われれば死活問題になる場所でなければならない。
 
④A国が攻めるB国の一地点は、容易に占領できる場所であり、かつC国陥落より早く占領できなければならない。
 
⑤もしB国のその地点の防備が固く容易に陥落しない場合、逆に攻めるA軍はC国攻撃から戻ってきたB軍と挟撃をうけ非常に危険。
 
 
 
 これくらいでしょうか?
 
 
 
 ①に関しては説明の必要がありますまい。囲魏救趙の計は時間差を利用した計略なので、例えばB軍の行軍速度がナポレオン戦争時のフランス軍のように他国軍より早ければ逆に各個撃破を許して破滅的打撃をこうむってしまいます。
 
 
 ②も①に関連していますね。
 
 
 ③A国の攻撃目標はA国の国境近くでしかもB国にとって奪われると致命傷になる場所である必要があるのは理解できるでしょう。いくら重要拠点でもB国の奥深くでは行軍にも時間がかかるし、もし途中で弱兵とはいえ本国に残ったB国の兵が抵抗して時間を稼げば、逆にA軍は敵地で追いつかれたB軍の本隊に背後あるいは側面から襲われ全滅しかねません。
 
 
 ④、⑤も③と関連してますね♪
 
 
 いかがでした?いくら兵法書に書いてあっても応用能力がなければ成功しないという事が理解できるでしょう。
 
 
 日本史で例えた方が分かりやすいですかね?
 
 戦国時代の武田、上杉の戦いを例にとりましょうか?
 
 
 武田信玄が北信濃を攻めその土地の豪族が上杉謙信に救援を求めたとします。この時上杉謙信の選択肢としては直接北信濃に進撃して救うか、それとも他所の武田領を攻めて武田軍の囲みを解くしかありません。
 
 例えば謙信が、上州箕輪城を攻めて「囲魏救趙の計」を仕掛けたとしましょう。
 
 箕輪城は西上野の要衝で、ここを奪われれば武田信玄の上野計略は危機に陥ります。しかし、箕輪城は防備が固くちょっとやそっとでは落城しません。
 
 信玄は悠々と北信濃の豪族たちを滅ぼし、その後箕輪城の後詰をすればよいのです。箕輪城攻略に手間取った上杉軍は、城兵と背後の武田軍本隊の挟撃を受け全滅するでしょう。
 
 
 では謙信としてはどうすれば良いのか?直接北信濃に入って武田軍と戦えば一番手っとり早いですよね。史実でも謙信はそうしました。これが川中島の合戦です。
 
 
 史実をかなり脚色していますが(笑)、実際問題として囲魏救趙の計を実行するにしても成立する条件を冷静に分析しなければなりません。いつも成功するような計略ではないのです。
 
 
 ですから古代最高の兵法書と呼ばれる孫子の兵法では、具体例を挙げずあくまで抽象論にとどめたのです。孫子の兵法が現代でも通用するといわれる所以ですね♪ちなみに、孫子の兵法はセントヘレナに流された後のナポレオンが初めてこれを読み感嘆したと伝えられます。