
久しぶりの日本史記事がこんなマイナーな題材で御免なさい。コメントは無きものと諦めております(汗)。
私鳳山の悪い癖は、歴史上ある一時期に彗星のごとく現れて活躍しその後の消息不明という人物や一族にとても興味をひかれるのです。その流れで北条時行や足利直冬みたいな人物は大好きで色々資料を漁っては最期を想像したりするのが無上の楽しみとなりました。
この仁木(にっき)一族などその典型でしょう。仁木頼章(よりあき)や仁木義長という人物を知っている方はほとんどいないと思います。
しかし運命の歯車がどこかでちょっと狂えば、仁木一族が幕府内で枢要の地位を占め、細川や一色は冷遇されるという歴史もあり得たのです!
仁木氏は足利一門です。しかし細川などと同様家格はたいしたことなく南北朝の動乱までは目立たない存在でした。承久の乱の戦功で足利宗家の義氏(三代)が三河守護に任ぜられると、一族の多くが三河に移り住みましたがそのなかで一族の足利実国が三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)を賜って仁木氏を称したのが始まりだそうです。
仁木氏の名を高めたのは、なんといっても頼章・義長兄弟の南北朝時代における活躍でした。宗家足利尊氏を助け各地を転戦、兄頼章は1336年尊氏が九州落ちした時、丹波の守護になり京都近くで尊氏捲土重来を待つ粘り強い戦をします。そして高師直横死後、後任の執事を務めました。
尊氏が天下を取ると、功績により兄弟で丹波・伊勢・伊賀など実に九ヶ国の守護に任じられるほど重用されます。最盛期の仁木氏は細川、山名ら有力守護に匹敵する大勢力でした。
が、満つれば欠けるは世の習い。温厚で(というイメージ)将軍家や諸将の信頼が厚かった兄頼章が1359年病死した事が一族の運命変転の始まりでした。
「観応の擾乱(1350~52)」(尊氏と直義が争った幕府内部の権力闘争)でも終始一貫して尊氏方であった仁木氏でしたから、幕府内の権力は自然に弟義長に集まります。
しかし、兄と違い弟は傲岸不遜な性格でした。今の室町幕府があるのは自分達仁木一族のおかげという驕った姿勢が、同僚や他の足利一門、外様の守護大名を見下す態度となったのです。このあたり高師直とかぶりますね(苦笑)。
おりしも1358年初代将軍尊氏が死去し、二代将軍義詮が将軍職を継いだばかりでしたから、こういう権臣が幕政を壟断する事に諸将の反発があったのでしょう。義長自身も無礼な態度で諸将に嫌われていました。
美濃守護土岐頼康や頼章に代わって執事になっていた細川清氏らと諍いを起こしたりしていましたから、排斥運動が起こるのは時間の問題でした。後ろ盾の尊氏を失っていたことも影響あったと思います。
一方、追討されるのが自分だと察知した義長は将軍義詮を自陣営に取り込む事で細川一派を逆賊にしようと画策します。が、肝心の将軍義詮を確保し損なうという大失態を演じました。
大義名分を失い、将軍を確保した細川方によって逆賊とされた義長は万策尽き、本国伊勢に落ちて行きます。
このままでは幕府の大軍を迎え撃って滅亡するだけでしたので、義長は1361年南朝に降ります。伊勢南半国は南朝方の国司北畠氏の勢力圏でしたからその縁もあったでしょう。この時の仁木義長の勢力圏は北伊勢、伊賀のみ。丹波など他の守護国は本国と切り離されていたため当てにできませんでした。
この決断はしかし結局彼の命取りになりました。南朝方に降ったといっても目立った動きをせず、反義長派の急先鋒、細川清氏がまもなく没すると帰参を許されます。が多くの守護国を奪われかろうじて伊勢一国の守護を保つのみでした。
一応丹波仁木氏は頼章の後胤、伊勢仁木氏は義長の子孫とされます。伊賀仁木氏は頼章後裔説、義長後裔説があってはっきりしません。他の有力守護大名のように守護領国を形成できなかったのでその勢力は緩やかに衰退するのみでした。
最後までかろうじて残ったのは伊賀仁木氏でした。応仁の乱の時に仁木氏の名前がでてきて一応伊賀守護は獲得したようですが、その支配は小国である伊賀一国さえ掌握できず北部のみがかろうじて勢力圏でした。
その後戦国時代にはいると名ばかりの守護となり、いつ滅んだのかもはっきりしません。隣国近江の六角氏綱の子の一人が仁木義政を名乗ったそうですから、伊賀では一応名が通っていたのでしょう。義政は足利義輝や義昭の御相伴衆として活躍したそうです。
ちなみに徳川四天王の一人榊原康政を出した榊原氏は仁木氏の庶流とされますから、これが真実だとすると傍系ながらその血は残った事になります。徳川幕府の譜代大名として生き残りましたからね。まあ、あのあたりの血統は徳川宗家をはじめとして当てにできませんけどね(苦笑)。