鳳山雑記帳はてなブログ

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西郷隆盛と会津藩家老西郷頼母(たのも)は遠い親戚???

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肥前西郷氏系図
 
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三河西郷氏系図
 
家系図武家家伝播磨屋さんから転載
 
 家系図で新発見シリーズ!(←今名付けた 爆)
 
 発端は「西郷隆盛って菊池一族だよな?誰が初代だっけ?」という素朴な疑問でした。もちろん自称でしょうから本当に子孫かどうかも分かりませんが、一応西郷家は肥後守護職菊池家庶流西郷氏の流れで、戦国時代薩摩に逃れてきて島津氏に仕えたという事になっています。
 
 どうして肥後(熊本県)の西郷氏が薩摩(鹿児島県)に来たか?ですが、これは同じ菊池家庶流で菊池家三家老の一人赤星氏に従って薩摩に来たのではないか?と推理しています。
 
 というのも戦国時代、肥後隈府(わいふ)城主赤星統家は肥前戦国大名竜造寺隆信に領地を追われ薩摩島津を頼って逃げてきているんです。
 
 
 で、「そういえば肥前にも西郷氏っていたな?これも菊池関係かな?」と思ったらどんぴしゃり!菊池家始祖則隆の子で西郷太郎を称した政隆が初代だそうです。
 
 肥後の西郷氏がいつ肥前諫早に来たかというと、どうも南北朝時代だったようです。一時菊池武光懐良親王を奉じて九州を統一した時に領地を貰った可能性が高いですね。武家家伝では初代政隆の時に諫早を領したようには書いてますが…。
 
 
 ところで一見関係がなさそうな三河西郷氏はどうでしょう?徳川家康関係の小説などをお読みじゃない方にはチンプンカンプンかもしれませんが、三河(愛知県東部)にも西郷氏はいたんです!
 
 
 地理的にここまで離れている両西郷氏をつなぐカギは、以前記事にした仁木義長です。足利尊氏重臣仁木義長一色範氏と共に短期間ではありますが九州探題になっています。
 
 その時肥前西郷氏の嫡流盛正が、義長に仕えたといわれます。ただこれは三河西郷氏がそう称しているだけであって肥前西郷氏の系図では確認できないので何とも言えません。箔をつけるために勝手に嫡流と称した可能性も?
 
 
 仁木義長九州探題の任を解かれ三河を始め畿内を中心に9カ国の守護を兼任し室町幕府内で権勢を誇ります。西郷盛正は義長に人生を賭け一族を引き連れて三河に移り住みました。正平年間(1346年~1369年)といいますからまさに南北朝時代です。
 
 三河西郷氏ですが、三河国八名に移り住み、そこを西郷庄と名付けます。三河西郷氏初代盛正は一時三河守護代にもなったそうです。しかし仁木義長の没落と共に泣かず飛ばず、駿河から今川氏が勢力を伸ばしてくるとこれに従い、新興勢力松平清康徳川家康のじっちゃん)が興るとこれに乗り換えるなど戦国の世でめまぐるしい変転を繰り返しました。
 
 三河西郷氏は萩平城・西川城・月ヶ谷城などの支城を有し、五本松城(愛知県豊橋市石巻中山町)を本城としていました。これってもしかして本家の肥前西郷氏より領地が大きいかもしれません(笑)。
 
 
 三河西郷氏は、今川と松平の間をふらふらし最後は徳川家康に仕えます。西郷家員は家康の下で武功を重ね、関東入部後下総国千葉郡生実で五千石。西郷氏はその後安房東条で一万石の大名にもなりますが寿員の代に職務怠慢で所領半減、結局五千石の旗本となりました。
 
 
 会津藩家老西郷頼母はこの三河西郷氏の一族です。徳川家康の愛妾西郷局も五本松城主西郷正勝の孫(名は昌子)で従兄・西郷義勝の継室になり、夫の戦死後は母の弟・西郷清員の養女として家康に望まれ側室になったといいますからこれも西郷一族。
 
 ちなみに西郷局は二代将軍秀忠、松平忠吉の生母で天正17年(1589年)38歳の若さで亡くなっています。とても美人で、性格も温和だったと伝えられています。
 
 
 肥前西郷氏、三河西郷氏はともに菊池氏と同様鷹の羽の家紋(枚数は違いますが)を使用していますので、真相はどうであれ菊池一族と称していたのは間違いなさそうです。
 
 
 歴史は面白い!それにしても戊辰戦争で攻める側の西郷隆盛と攻められる側の会津藩家老西郷頼母が遠い親戚だったとは驚きですね♪
 
 
 
 
追加情報:三河西郷氏は最初額田郡南部(愛知県岡崎市幸田町)に勢力があり、15世紀三河守護代西郷稠頼とその子頼嗣によって岡崎城は築城されました。
 
遠江国境に近い八名郡を領した西郷氏の他に支流がいくつか枝分かれしていそうです。