成田氏は、武蔵七党横山党の流れともいいますがはっきりしません。系図上はっきりしているのは平安時代末期頃の助隆で、彼の代に初めて成田氏を称したと言われています。小さな在地領主から発展していったようです。
成田氏は鎌倉御家人として記録に出ていますからいわゆる頼朝公以来の名家ということになるでしょう。
成田氏がこの地を根拠地にしたのは親泰の時代(?~1545年、ただしその父顕泰の時代という説もあり)でした。同地を治める同じ武蔵七党の児玉氏を滅ぼして本拠を移したと言われています。
顕泰には一人娘がおりました。名は都留。それはそれは心優しく近隣にも響きわたるほど美しい姫様だったそうです。
ある時姫は、侍女とともにお城を出て城下に幕をめぐらし歌詠み会を催していました。勝手な想像ですが花の季節、咲き誇る桜を愛でながらの歌会だったのでしょう。
そこへたまたま成田家の若侍が通りかかりました。幕の中から何やら楽しげな若い娘の笑い声が聞こえたのでふと興味を覚え幕をめくったそうです。
彼が見たものは、美しい着物よりさらに美しいこの世のものとは思えないほどの美貌の姫。一瞬にして恋に落ちたのはいうまでもありません。
しかし、よくよく考えると相手は主君の姫君。身分違いの恋が叶うはずもありませんでした。若侍は思い悩みます。何にも手がつかず上の空の毎日です。不審に思った彼の両親が若者に尋ねると、なんと主君の姫君に恋をしているというではありませんか!両親が驚いたのなんの。
両親は、このままでは主君に知れ手討ちにあうかもしれないと恐怖します。そればかりかお家断絶にでもなりかねないと親戚と相談の上、息子を殺害してしました。
後日このことを伝え聞いた都留姫はまだ一度も会ったことのない若者の死を不憫に思います。自分のために命を失った若者を憐れみ彼の菩提をともらうため持田に庵をつくり尼となりました。
常慶院と号し、朝夕仏に祈る日々を過ごします。晩年この地に寺を作るよう遺言しました。これが曹洞宗大用山常慶院の由来だそうです。