鳳山雑記帳はてなブログ

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阿波小笠原・三好一族

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 室町時代から戦国時代にかけて、管領細川氏の家宰、阿波守護代として台頭してきた三好氏。一時は長慶のとき阿波・讃岐・淡路・摂津・河内・和泉・大和・山城の八カ国にまたがる大勢力を誇りましたが、その滅亡もまたあっけないものでした。
 
 三好氏は小笠原一族だと伝えられています。阿波と信濃守護で有名な甲斐源氏小笠原氏となぜ関係が?と疑問に思ったのですが調べてみると鎌倉時代小笠原氏は阿波守護を歴任していました。
 
 もともと鎌倉時代初期、阿波守護には近江源氏佐々木経高が任じられていました。この経高もどこかで聞いたことのある武将だと思ったら、京極佐々木氏の記事で出てきた六角・京極氏の祖信綱の父定綱の弟(信綱の叔父)でした。
 
 経高は阿波の他に土佐、淡路の守護も兼任する鎌倉幕府の要人だったようです。しかし1221年承久の変が起こると鎌倉方ではなく宮方に転じます。彼がなぜ宮方に付いたのか謎ですが、京と佐々木氏の本国である近江の関係、頼朝亡き後専横を極める北条氏に対する反感があったのだと思います。
 
 ただ佐々木氏嫡流の甥、信綱は子供たちとともに最初から幕府方として参戦していますから、もしかしたら一族間の確執もあったのかもしれません。調べてみると信綱の兄広綱も宮方に付いています。承久の変では他の豪族と同じく一族相争ったのでしょう。
 
 承久の変が幕府側の勝利に終わると、佐々木一族でも宮方に付いた者はことごとく処刑されます。幕府の総大将として京に乗り込んでいた北条泰時は、経高の命だけは助けるつもりだったと伝えられます。「降伏して謹慎していろ」という命を自害しろということだと受け取った経高は切腹し泰時のいる六波羅に向かいました。
 
 泰時は、瀕死の経高に会い本意ではなかったと詫びたそうですが、真相は分かりません。宮方の有力武将でしたから生かされることは考えにくいと思います。他の武将も公家も厳しい処断でしたから。泰時が許しても父義時は絶対に許さなかったでしょう。
 
 
 ともかく、佐々木経高の一族は承久の変でことごとく滅びました。幕府は空白になった阿波の守護として小笠原長清を入れます。長清は信濃小笠原氏の祖でもありますが、長清の孫長忠の代に弟の長房に阿波守護職を譲り、以後長房の子孫が阿波守護家として続きました。
 
 一族は阿波各地に分布し、そのなかで三好郡に土着した一族が三好氏を名乗ったようです。ただしはっきりとした系図が残っていないため本当に血縁関係があったのかは謎ですが…(苦笑)。
 
 
 南北朝時代、阿波守護小笠原氏は南朝方に付いたため足利尊氏は阿波守護に一族の細川氏を任命し以後阿波は細川氏の領有となります。旧守護小笠原家がどうなったのか不明ですが、分裂した小笠原一族のうちいくらかは細川氏に従ったみたいです。その中に三好氏の名前も出てきます。
 
 
 三好氏がはっきりと歴史の表舞台に登場したのは、三好義長の時代でした。細川氏の阿波守護代として文献に登場しています。
 
 三好氏は阿波守護代だけではなく細川氏の家宰として応仁の乱以後畿内での権力争いに登場し、あいつぐ戦乱で衰えた主家細川氏を凌ぐようになっていきます。
 
 義長6世の子孫、長慶のときには主君であった管領細川晴元を将軍足利義晴ともども京都から追放するほどの実力者になりました。
 
 長慶は、追放した晴元に代わって細川氏綱を擁立しこれを傀儡政権として幕政を壟断します。将軍義輝も長慶の権力には逆らえませんでした。この時が三好氏の絶頂期です。しかし権勢を誇った長慶の死後、一族が相争い家老の三好三人衆松永久秀が争うようになり衰えました。
 
 1668年、織田信長が上洛してくると長慶の後を継いでいた養子の義継と松永久秀は早々と信長に降伏し、対立した三好三人衆は織田軍と戦って滅ぼされました。義継と久秀も心から信長に信服していたわけではなく、後に反逆し滅ぼされます。義継の死を持って三好家嫡流は途絶えました。
 
 三好一族では、三好康長(出家して笑岩)と十河存保(そごうまさやす)だけが信長に仕えて生き残りました。ところが泣きっ面に蜂、今度は土佐の長宗我部元親に三好一族に残された阿波・讃岐を侵略され1582年中富川の合戦で大敗します。
 
 この時は本能寺の変後政権を取った羽柴秀吉に臣従し、秀吉の四国征伐で救われました。が戦後処理で十河存保に認められたのは讃岐十河3万石のみ、三好笑岩も河内の所領だけで他は阿波一国が蜂須賀正勝など豊臣恩顧の武将に分割されました。
 
 
 その後笑岩は武将としての野心は捨てたようで茶人として余生を過ごしひっそりと死んだとされます。十河存保は三好家最後の生き残りとなりましたが、九州征伐の折かっての宿敵長宗我部元親の嫡男、信親を巻き添えにして戸次川の戦いで戦死します。
 
 存保の子、存英(ながひで)は秀吉から所領相続を認められず改易という憂き目にあいました。
 幼くして流浪し最後は大坂夏の陣で豊臣方として参戦、摂津尼崎で戦死したそうです。享年40歳。
 
 あと、三好三人衆最後の生き残り、三好政康大坂の陣で豊臣方として戦死しています。三好氏の傍流は他の大名家に仕えて生き残ったようですが、大名としての三好家は十河氏の改易によって完全に滅びました。