そもそも大陸打通作戦はなぜ企図されたのでしょうか?
大東亜戦争は、ガタルカナル消耗戦の後悪化の一途を辿っていました。太平洋における制空権も制海権も失い、連合軍潜水艦の跳梁跋扈によって南方資源地帯と本土を結ぶ海上連絡線はズタズタにされていました。また支那大陸奥地の飛行場からB‐29による空襲をうけ空と陸から日本は締めあげられつつありました。
その時系列を示すと
1943年5月 アッツ島玉砕
9月 イタリア降伏
10月 べララベラ海戦
11月 ブーゲンビル島沖海戦
マキン、タラワ玉砕
12月 マーシャル諸島沖航空戦
1944年2月 クェゼリン島玉砕
トラック島空襲
3月 インパール作戦開始
もはや太平洋における挽回は不可能でした。陸軍は勝ってはいないにしても負けてはいない支那戦線において一か八かの大攻勢をかけることによって戦局の大転換を図ったのです。
作戦目的は大きく二つ。
②途中にある連合軍航空基地を覆滅し、B-29の本土爆撃を不可能にする。
ここで当時の日本の国力を理解している方なら当然疑問が生じるでしょう。
まず、直線距離1600km総延長4600kmに及ぶ鉄道を敷設するだけの資材があるのか?
次に、占領したとしてその維持はどうするのか?守るには膨大な戦力を張り付けておかなくてはならない。
当然これらの疑問は出てきており、蒋介石の抗戦意欲を失わせるのが主目的なら重慶攻略作戦のほうが現実的なのではないか?という至極まっとうな意見もあったのです。しかし服部卓四郎などの大本営のエリート参謀たちは机上の空論だけでこの強引な作戦を押し切ります。
こうして成功しても戦略的効果が疑問だった大作戦は発動しました。大陸打通作戦は大きく二つの支作戦に分けられます。まず北京と漢口を結ぶ京漢線を打通する京漢作戦。次いで漢口から長沙、桂林を通ってベトナム国境まで打通する湘桂作戦。
まず京漢作戦では、要衝許昌、次いで洛陽を占領しほぼ作戦目的を達成します。しかし問題は湘桂作戦でした。俗に支那大陸は南船北馬といわれます。広大な平野の広がる華北と違い、長江以南は無数の河川と山岳が続き行軍は困難を極めました。
実は長沙はこれまでも何度か攻略しようとして悪路と瘴癘な気候による疫病で失敗した経緯がありました。長沙攻略がこの作戦の成否を決める天王山でした。
攻略を担当する第11軍は、隷下の8個師団に応援の3個師団を加えしゃにむに攻撃を開始、激戦の末ついに長沙占領を果たします。しかしそこから衡陽、桂林と進むにつれ深刻な問題が生じました。
山岳地帯を進むにつれ、次第に補給に困難をきたし始めたのです。自動車でなく馬匹を利用した状況でさえこうなんです。鉄道敷設が机上の空論だったのはこの事実を見ても分かります。
湖南地方は「湖広熟すれば天下足る」と称されるほどの大穀倉地帯でしたが、農民が穀物を持って山に逃げたため現地調達もできず、日本軍は飢えはじめました。しかも現地は酷暑、湿地帯で疫病が蔓延、インパール、ニューギニアと同様戦闘よりも病気で倒れる将兵が続出しました。
それでも我が皇軍は、大きな犠牲を払いながらも翌1945年1月作戦目的をほぼ達成、悲願の大陸打通を成し遂げました。
ところが1944年7月にはマリアナ諸島が失陥していたためB‐29の出撃基地覆滅という作戦目的の一つは無意味となっていました。さらに打通は成功したものの連絡線の維持のために膨大な兵力が投入され逆に北支において中共軍の勢力伸長を許してしまいます。物資移動もこのルートからはほとんど利用されませんでした。敵である国府軍の損害もかなりありましたが、援蒋ルートによるアメリカの膨大な援助で回復可能でした。
であるなら、やはり重慶攻略に全力を注ぐべきだったのかもしれません。ただ地図を見てもらえば分かる通り(第11軍の占領地域を見てください!)それもかなり難しかったのは事実。
結局グランドデザインなしに支那事変を始めた陸軍上層部の無能さのツケが、ここでも足を引っ張ったと言えるかもしれません。