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尼子氏と鉄交易

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 戦国時代、周防の大内氏と中国地方の覇権を争った尼子氏。最盛期には中国八か国に勢威を振い石高も百万石を軽く超えていたといいます。

 しかしよく良く調べてみると、直轄領として数えられるのは本拠の出雲の他は伯耆、美作くらいであとは国人領主支配下に置いたか、酷いのになると一部に尼子方がいるくらいでとても一国支配とは言えないケース(石見、安芸など)もあるくらいです。

 一応信頼できるデーターとして寛永期の検地高を見てみると出雲22万石、伯耆13万石、美作22万石で合計58万石(隠岐は島国でほとんど米がとれない)と大した事ないのです。


 これでは直轄領だけで周防、長門(計30万石)と安芸(26万石)の大半、石見半国(13万石、ただし石見銀山保有)、豊前筑前の大半(計60万石は下らない)の130万石弱を保有する上に、勘合貿易日明貿易)で巨額な収益を上げていた大内氏と対抗するのはかなり難しいと言えます。


 石高だけでは到底太刀打ちできない尼子氏が、力を入れていたのは山陰第一の良港美保関を通しての鉄貿易でした。


 よく知られているように中国地方山間部は、踏鞴(たたら)製鉄の一大産地です。尼子氏はこの鉄利権を一手に握り、美保関を通じて朝鮮や明に輸出していたそうです。

 どれほど経済規模があったかというと、明船への唐物役(関税)だけで年5000貫あったと言われています。これは応仁期(1467年~1468年)の数字ですから、戦国時代にはその何倍にも達していたでしょう。

 また戦国時代に入って、海賊が横行していた瀬戸内海を嫌って明や朝鮮の船の山陰地方への寄港が増えていた事もあげられます。


 どれくらい瀬戸内海の海賊被害が凄かったかというと、周防の大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛した際、安全のために兵糧米を日本海航路で若狭から陸揚げし京に運んでいた事でも証明されます。


 そういえば出雲守護京極氏と守護代尼子氏の不和も美保関公用銭(上納金)徴収利権を巡っての争いが原因の一つですから、尼子氏にとって美保関は最重要拠点であり生命線だったといえるでしょう。


 総額では美保関での鉄交易はかなりの額になったと思いますが、それでも大内氏の支配する石見大森銀山の奪取にこだわったのは、経済的にまだまだ大内氏に及ばなかったからでしょう。

 これも後に記事にするつもりですが、勘合貿易は明への朝貢貿易なので遣明船1隻の純益が1万貫(一説では2万8千貫)を下らなかったそうですから、3隻派遣するとして最低でも純益3万貫という巨額なものでした。滞在費・運搬費などもすべて明側の負担だったそうですから、これほどぼろ儲けの商売はありません。

 
 勘合貿易の権益を巡って大内氏細川氏が寧波(ニンポー)で合戦騒ぎを起こした事でもそれは想像できます。



 尼子氏と大内氏の争いは別の見方をすれば博多・瀬戸内交易圏と山陰交易圏の争いだったと言えるかもしれません。