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フス戦争とマスケット銃   - 知られざる軍事革命 -

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 世界史上、それまでの戦争のやり方を変えるきっかけとなった事件がいくつかあります。一つは鐙(あぶみ)の発明、そしてもう一つはマスケット銃の発明です。


 鐙を使用することによって、遊牧民族の独壇場だった騎兵に遜色ない能力を持った騎兵部隊を農耕民族でも編成できるようになり、歩兵・騎兵の複合戦術を農耕民族側が取れるようになりました。

 一方マスケット銃は、それまでの主力だった騎兵をろくに訓練していない農民兵でも撃破できる可能性を持ったという意味で画期的でした。


 それまで火薬を使った武器は、モンゴルが使用した鉄砲、支那大陸で発達したロケット花火状の兵器など存在してはいました。しかしこれらは殺傷兵器というより爆発音の大きさで人や馬を驚かすという代物だったのです。


 しかしマスケット銃は違いました。鉄製の筒の片方を閉じ、銃口から火薬と弾丸を詰め火縄などで点火することによって弾丸を発射するという機構をもったマスケットは、長弓や弩(クロスボウ)と違い、ほとんど訓練が必要ありません。どんな素人が使っても威力は一定で強い殺傷力を持ちます。



 当時戦争の主役であった国王や貴族の騎士たち、あるいはスイス人傭兵のような歩兵戦闘のプロ達と、農民たちが互角に戦えるようになったのです。




 マスケット銃が世界史上初めて登場したのは、1419年~1439年ボヘミアプラハを中心とするチェコ中西部)とポーランドで起こったフス戦争でした。


 世界史を学んだ方なら記憶の片隅にあるかもしれませんが、フス戦争はカトリックの改革をめざしたヤン・フスが処刑されフス派が弾圧されたことに怒ったフス派住民によって起こされました。世界史上の意味合いではプロテスタントの先駆けともいえますが、実は軍事的にも大きな意味をもった戦争でした。


 フス派にはボヘミアの下級貴族もいましたが、大半は農民でした。敵は神聖ローマ帝国ポーランド王国です。強大な騎士団、ランツクネヒツ・スイス人傭兵隊などのプロの軍隊に対抗する術を持たない彼らが、必要に駆られて発明したのがマスケット銃だったと言えるでしょう。


 当時のボヘミア地方は、フランドル地方とともにヨーロッパでも商工業が発達した地方でした。現代でもチェコは銃器で有名(Cz75など)ですが、そのころも工業先進地帯だったのです。


 フス派の反乱軍は、ボヘミア下級貴族出身のヤン・ジシュカを指導者に迎え神聖ローマ皇帝の組織したボヘミア十字軍を幾度も破ります。その得意戦法は馬車を横一列、あるいは円形にぐるりと囲み、それを盾として、マスケット銃を撃ちまくるというものでした。もし敵が接近してきたら、馬車の上、あるいは隙間から槍で攻撃したため、遠距離戦でも接近戦でも有利に戦えました。


 これには戦いのプロである騎士団も傭兵隊も辟易します。マスケット銃を操る戦争の素人であるはずの農民たちに幾度となく苦杯を舐めさせられました。


 反乱そのものは、指導者ヤン・ジシュカが1424年モラヴィア遠征中にペストにかかって死亡したことでフス派内部で対立が激化し、抗争を始めて力が衰えたところをカトリック側に衝かれ鎮圧されてしまいます。


 しかし、この戦争以後マスケット銃がヨーロッパ中に急速に普及することになったのは、騎士や傭兵たちがその身をもって威力を十分に味わったからでした。また戦場が東欧であったため、オスマントルコなどにも情報が早くから伝わりイエニチェリの主力武器としても採用されています。


 もしかしたら、弾圧を逃れたフス派の残党がイスタンブールに辿りついてマスケット銃を伝えたのかもしれません。


 以後マスケット銃(とそこから発達したライフル)を装備した歩兵が、それまでの花形であった騎士に代わって戦場の主役に躍り出ます。騎兵の復権は第1次大戦で登場した戦車まで待たなければなりませんでした。