鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

世界史英雄列伝(39) 『ヌールッディーン・マフムード・ザンギー』 反十字軍の英雄

イメージ 1

 久々の英雄列伝更新は、マイナーな中東の英雄です。ヌールッディーン、おそらく歴史通の方でも知っている方は少ないとは思いますが、中東史において重要な役割を果たした人物です。


 私の世界史的なイメージでは、後周の世宗・柴栄あるいはインドのシェール・シャーとかぶるのです。まあこの二人と比べたら在位は長かったですが…。




 ヌールッディーン・マフムード・ザンギー(1118年~1174年・在位1146年~1174年)は、シリアとイラク北部を支配したザンギー朝(1087年~1146年)の第2代スルタンです。

 ザンギー朝の創始者イマードゥッディーン・ザンギーは、もともとセルジューク・トルコの武将でしたが父の代から独立を図り、バスラ太守のときセルジューク朝のスルタンを反乱から救った功績でイラク北部モスルの太守に任ぜられ力を蓄えます。ダマスカスの土着勢力やそのころ中東にできつつあった十字軍国家と戦っていました。

 そして1144年に十字軍国家エデッサ伯国の都エデッサを落としたことで、一躍イスラム世界の英雄と称えられ自立を果たします。ザンギー朝の成立です。

 しかし1146年ザンギーは奴隷に暗殺されてしまいます。誕生したばかりの王朝はザンギーの二人の息子に分割継承されました。兄のサイフッディーン・ガーズィーがイラク北部、弟のヌールッディーンがシリア北部のアレッポ周辺です。


 なぜ分裂してしまったのか不明ですが、おそらくお決まりのお家騒動があったのでしょう。国土が半分になったうえに十字軍の矢面に立つ西側を継承したのですからヌールッディーンの立場には困難が予想されました。


 しかし彼は28歳で王位を継ぐと、父に勝る武勇と智謀でこのころエデッサ伯領が取り戻していたエデッサの街を再奪回します。更に1149年にはアンティオキア公国の公爵レーモン・ド・ポワティエとの戦いに勝利、1150年にはエデッサ伯領を完全に滅ぼしました。

 ヌールッディーンは容姿端麗かつ勇敢な戦士だと伝えられていますが、残念ながら肖像画は見つかりませんでした。イスラム世界には偶像崇拝が禁止されているので肖像画は描かれなかった可能性が高いのです。肖像画銅像などがあるサラディンは例外です。もっともこれものちの想像で描かれたという説もありますが…。


 生涯を通じて十字軍と戦い続けた彼は、ついに1154年父がついに手に入れられなかった念願のダマスクスに入場します。かってのウマイヤ朝の首都で中東の要衝でもあったダマスクスは以後彼の王朝の首都になりました。



 しかし彼の活躍は、かえって欧州側に危機感を募らせます。押し寄せた第2回十字軍とレバノン、シリアの地で血で血を洗う抗争を繰り返すようになりました。

 ちょうどこの時、エジプトのファーティマ朝が十字軍国家の盟主とも言うべきエルサレム王国に攻撃され、救援を求めてきました。


 ヌールッディーンは重臣シール・クーフに軍を授けファーティマ朝救援に赴かせます。この時同行したのがシール・クーフの甥のユースフ・イブン・アイユーブ、つまり後のサラーフ・アッディーン(サラディン)でした。

 シール・クーフとユースフは、ヌールッディーンの期待に応えエルサレム王国の侵略を撃退します。そしてそのままエジプトに留まりエジプトをザンギー朝の影響下に置きました。

 1168年シール・クーフが死去すると、その地位は甥のユースフに受け継がれます。ユースフは宰相兼軍最高司令官に就任し、事実上のエジプトの支配者になりました。ユースフはこのままファーティマ朝を滅ぼし、自らのアイユーブ朝を創始します。


 ユースフの動きを苦々しく思っていたヌールッディーンでしたが、自らは十字軍との戦いで身動きが取れなかったのでしばらく放置していました。


 1171年と73年、ヌールッディーンはユースフに対し自らのエルサレム攻撃に参陣を促します。しかしこれをユースフが拒否したため両者の関係は悪化しました。


 1174年、ヌールッディーンはエジプトを従わせるため遠征軍の準備を始めました。ところがその最中の5月、熱病にかかって急死してしまいます。


 もしヌールッディーンのエジプト遠征が実現していたら、両者の将帥としての力量を考えるとユースフが負けていたかもしれません。歴史に名を残すのはユースフではなく彼であったかもしれないのです。運命の皮肉でした。


 ヌールッディーンの死後、幼い息子が後を継ぎますがザンギー朝は急速に瓦解します。逆に1185年シリアに侵攻してきたユースフによって吸収され、滅亡しました。以後はユースフ・イブン・アイユーブつまりサラーフ・アッディーンが中心となって歴史が動き始めるのです。





 ヌールッディーンの統治と何だったのでしょうか?彼は常に戦陣にあって部隊を指揮し戦い抜きました。一方、文化面でもアレッポダマスクスなどにヌーリーヤ学院(al-Madrasa al-Nūrīya)を創設します。これはセルジューク朝のニザーミーヤ学院と並びシリア一帯におけるハナフィー法学派などのスンナ派教学の振興に大いに貢献したそうです(ウィキペディアより)。


 
 こうして見てみると、サラーフ・アッディーンのアイユーブ朝はザンギー朝ヌールッディーンという土台があって初めて成立したものだともいえます。私が冒頭で後周の世宗やシェール・シャーの生涯と似ているといった意味はそういうことです。