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トブルク要塞

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 超マイナーな要塞シリーズ、今回は第二次大戦中北アフリカ戦線で枢軸軍と連合軍の間で激しい争奪戦が巻き起こったトブルク要塞です。

 地図を見てもらうと分かりますがリビアは国土のほとんどが砂漠です。主要幹線道路も地中海に面した沿岸にしかありません。ここを戦場とする場合、内陸部では戦闘が発生しにくくどうしても補給しやすい沿岸部になりがちです。

 改めて地図を見てみるとリビアでの物資補給の要である大規模港湾施設があるのは首都トリポリのほかはベンガジ、トブルクしかないことに気付きます。

 実際これらの地は激しい戦闘が起こりました。


 もともとトブルクを含むリビアはイタリアの植民地でした。イタリアがいらないことをしなければ戦場にならず平和を謳歌していたはずでした。しかしムッソリーニは快進撃を続けるドイツに魅了され、バスに乗り遅れるなとばかり参戦。イギリスがドイツと欧州で激しい戦いを演じている最中、火事場泥棒よろしくイギリスの重要な植民地であるエジプトを狙って50万の大軍を集結させてリビア国境を越えました。


 この時エジプトには、わずか3個師団しかありませんでした。しかし精強なイギリス軍は、侵入はしたものの戦意の低いイタリア軍を押しまくり逆に国境を越えリビアに侵入する始末でした。イタリア軍の混乱はひどく、この時捕虜13万を出したと伝えられます。


 これであわてたムッソリーニヒトラーに泣きつきます。ヒトラーロンメル指揮下のドイツアフリカ軍団(DAK)を派遣し、以後ドイツ軍が中心となって北アフリカ戦線の戦闘が繰り広げられます。


 ところでトブルクですが、イタリア軍がこの地の重要性を熟知しているなら当然要塞化していなければいけないはずでしたが、なぜかあっさりと陥落。イギリス軍はトブルクを含むキレナイカ地方を占領します。

 当然イギリスは、トブルクを重視し厳重な要塞工事を施しました。


 要塞の分類としては、補給港を守る港湾要塞となるでしょう。さすがにイタリア軍と違ってイギリス軍の工事は厳重を極めます。ロンメル率いるアフリカ軍団が何度か攻め寄せましたが頑として寄せ付けませんでした。


 ロンメルのアフリカ上陸が1941年2月、トブルク陥落が1942年5月、すべてがトブルク攻防戦ではないにしても、恐るべき防御力と言わざるをえません。


 トブルクを手中に収めたロンメルは、エジプトに侵入、有名なエル・アラメインの戦いが始まります。このころにはイギリス中東軍にアメリカの莫大な軍事援助が届き始めます。損害を上回る豊富な補給で生き返ったイギリス軍は、補給線の伸びきった独伊軍を撃退。再度リビア国境まで押し返します。

 ジリ貧に陥った独伊軍は敗退を重ね、三度トブルクは支配者を代えました。以後トブルクが戦場になることはありませんでした。なぜなら1942年11月、トーチ作戦が発動。アルジェリアの地にアメリカ軍22万が上陸したからです。

 戦車1000両、火砲1000門、航空機1200機を有する大軍を前にしては枢軸軍はなすすべを知りませんでした。それでも一度はチュニジアの山間部でロンメルアメリカ軍を破ります。が、抵抗はここまででした。

 東からモンゴメリー率いるイギリス第8軍、西からパットン率いるアメリカ第3軍の挟撃を受けて枢軸軍はチュニジアの地で降伏しました。



 私が考えるに、意外とイギリス軍は半永久的な要塞よりトブルクのような野戦築城っぽい臨時要塞のほうが得意だったのではないかと思います。トブルクの頑強な抵抗力と、割合あっさりと陥落した香港、シンガポールを比べるとそのように判断せざるをえません。