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兵器の実験場    - シリーズ スペイン内戦③ -

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 スペイン内戦が発生すると、独伊はフランコ側に、ソ連は人民戦線側に援助を開始しました。それは当然自陣営の勝利のためでもありましたが、それと同時に自国兵器がどれほどの能力を持っているかの実験場という性格も持っていました。

 特にソ連は45mm砲を持つ強力なT-26や、同じく45mm砲装備の快速戦車BT-5、世界初の実用引っ込み脚装備の金属製モノコック構造戦闘機I-16、複葉のI-15とともにそれを動かすパイロット、整備兵、高射砲要員など第1陣だけで2千人以上の軍事顧問団をスペインに派遣します。最終的にはおそらく万単位のソ連軍事顧問団がいたと想像させられます。

 一方イタリアは、正規師団1個と、ファシスト青年団の志願兵からなる3個師団(一部正規兵あり)の5万以上の大軍を送り込みます。空軍海軍も積極的にフランコ軍支援を行いました。

 ドイツはこれらの国とは違い理性的に対応します。空軍が主力のコンドル軍団(コンドル義勇軍)に若干の陸軍部隊のみ。ただし支援体制だけは充実し多数の整備兵のほかに88亶蘯曜いらなる防空部隊まで持っていました。それでも航空機は戦闘機、爆撃機を合わせても最大で130機以内にとどまります。




 まず航空戦ですが、緒戦で数にものを言わせて圧倒したフランコ軍は、ソ連製のI-15、I-16が登場してくると危機に陥ります。独伊がスペインに送り込んだ旧式のハインケルHe51やフィアットCR32では太刀打ちできなくなりました。しかもソ連製戦闘機はどんどん増強され最終的には1千機も援助されました。爆撃機ソ連製のSB2爆撃機フランコ軍側戦闘機は撃墜できず我が物顔でスペインの上空を飛びまわります。ドイツが派遣したポケット戦艦ドイッチランドを攻撃し中破に追い込んだのもSB2でした。

 ドイツ軍の爆撃機He111や急降下爆撃機Ju87スツーカも、自軍戦闘機が性能で劣るため十分なエスコートを受けられず苦戦します。この状況はドイツが最新鋭機メッサーシュミットBf109B型を1937年スペイン戦線に投入するまで続きます。Bf109はさすがに最新鋭機でした。I-15、I-16をその性能で圧倒し再びフランコ軍に制空権を取り戻しました。

 以後この優位は変わらず、数で押す人民戦線軍を質で凌駕するという緒戦とは全く逆の状況が最後まで続きました。




 次に陸戦を見てみましょう。内戦勃発時陸軍の多くが参加したフランコ軍は、民兵と外国からの義勇軍中心の人民戦線軍よりも有利でした。しかし陸戦でもソ連製のT-26戦車などの新型戦車が登場すると苦戦するようになります。フランコ軍はもちろんイタリア軍やドイツ軍にもこれを撃破できる車両はありませんでした。ドイツの狭羸鐚屬特殊砲弾を使用して500m以内の近距離ならかろうじて撃破できるくらいでした。この当時のソ連戦車は、ようやく世界各国が37mm砲搭載の戦車を開発しているとき、45mmという強力な主砲と機動力を持って世界を一歩も二歩もリードしていました。

 この先進性が、のちにT-34という傑作戦車を生み出す土壌でした。しかも空軍と違い最後まで新鋭戦車が投入されませんでしたから、機甲戦の不利は最後までフランコ軍を苦しめます。

 そんな中、ドイツのフォン・トーマ大佐(当時、のち将軍。名機甲部隊指揮官となる)は能力に劣る戦車でも集団で使用し、有機的に運用すれば機動力で圧倒できるという事実に気づきます。後方支援も足の遅い砲兵ではなくて空の砲兵である急降下爆撃機にまかせれば良いと。スペインで得られた戦訓は早速ドイツ本国に送られます。こうして完成したのがのちの電撃戦戦術でした。

 逆にソ連は、戦車だけで突進しても歩兵が付いてこなければ戦果の拡大は得られないとの戦訓から諸兵科連合部隊戦術を学びました。

 こうしてスペインの戦場で得られた戦術が第2次世界大戦で実際に使用され、戦史に一時代を築くこととなるのです。




 最後に海軍の戦いを見ていきましょう。スペイン海軍は戦艦2隻、重巡2隻を中心になかなかの勢力を持っていました。しかし内戦が始まると戦艦は1隻ずつ仲良く両陣営に分けられます。本格的海戦は起こらず機雷や事故で戦闘能力を失いどちらも戦局に全く寄与しないまま終わりました。むしろ活躍したのはイタリア海軍です。と言っても表立って活動できないイタリア海軍は潜水艦を使って地中海上の人民戦線側に軍需物資を運ぶ輸送船を次々と撃沈していきました。ソ連船はもとより英米の輸送船まで沈めたためイギリスが激怒します。

 「今後地中海で国籍不明の潜水艦を発見した場合、容赦なく沈める」というイギリスの強硬な申し出をなんとイタリアはぬけぬけと賛成したのです。このあたりのイタリア外交はまさに絶頂期であったといえます。地中海でイタリア潜水艦を沈める能力を持っていた海軍は英仏だけでしたから、これらの輸送船に対する攻撃を控えただけでした。

 英米ファシズム共産主義の共倒れを願って両陣営に援助していましたから、こうなると黙りこまざるを得なくなります。それよりもフランコ軍は輸送船の入ってくる港を占領することに全力を挙げるようになりました。

 一方、フランコ軍はポルトガルの港という絶対の安全圏を持っていました。ポルトガルイベリア半島の赤化を恐れ密かにフランコを援助していたのです。武器や弾薬もまずポルトガル英米から買い、それを陸路を通じてフランコ軍に流すという方法で安定的供給を保っていました。

 兵站の面ではすでに勝負がついていたと言えるでしょう。制海権を完全に握ったフランコ軍はドイツのポケット戦艦まで地中海に引き込み人民戦線側の通商破壊を続けました。






 海空は完全にフランコ軍の優勢、陸だけがソ連製の高性能戦車の力で互角を保っていましたが、ソ連軍事顧問団の引き上げとともにこれも勝負がつきました。人民戦線の勝ち目はこうしてみるとかなり薄かったと言えるかもしれません。