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規矩(きく)高政の乱と九州北条一族の最期

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 久しぶりの日本史記事がこんなドマイナーな記事でごめんなさい。熱田北条さんの諏訪大社北条時行の記事へのオマージュとして書かせていただきました。

 皆さんは規矩(きく)高政あるいは北条高政という人物をご存知ですか?おそらく聞いた事もないでしょう。どのような人物かというと…

『北条高政(ほうじょうたかまさ)は鎌倉時代の武将。肥後国守護。金沢流北条氏(金沢氏)の出自で、父は政顕。赤橋流北条氏で執権となる北条守時の弟英時の養子となった。規矩高政。
肥後守として九州へ赴任していたが、元弘3年(1333年)に中央での六波羅探題滅亡や鎌倉陥落、金沢氏を含む北条氏一門滅亡などの報が伝わると少弐氏や大友氏らが宮方に属し、5月に鎮西探題英顕らは滅される。高政は翌年に豊前国田川郡糸田庄(福岡県田川郡糸田町)を領する弟の糸田貞義とともに九州で挙兵し、家領の豊後国規矩郡帆柱山城(福岡県北九州市八幡西区)で北条氏残党を集めて抵抗するが、同年7月には鎮圧される(規矩・糸田の乱)。』(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より)


 という人物で、まあ歴史の脇役といってもよい人物です。弟の糸田貞義はウィキペディアにさえ載っていないのでさらに悲惨です。


 これだけでは歴史の流れが浮かんでこないと思うので、ざっと北九州の鎌倉末から南北朝初期の歴史を振り返りましょう。まず1321年鎌倉幕府最後の執権、赤橋(北条)守時の弟、英時が鎮西探題として九州に赴任します。英時は生年が不明ですが兄の守時が1295年生まれですから、このとき20代中頃あるいは前半でしょうか?

 英時はその後1333年まで12年探題の職に就きます。その間の裁許状が200通以上。統治能力の高い名探題でした。

 高政は金沢流北条氏の出ですが、この英時の養子になります。といいますのも、もともと父の政顕や叔父の種時が鎮西探題を歴任し九州に縁が深かったため、おそらく長じた後は英時に代わって鎮西探題にするという含みがあったのでしょう。

 高政は1327年から肥後守護、弟の貞義は豊前守護の役職にありました。しかし時代は激動のうねりを迎えていました。

 後醍醐天皇の綸旨を受け、倒幕の機運が高まっていたのです。1333年京都で足利高氏が、関東で新田義貞が挙兵すると、九州でも幕府方であった少弐貞経大友貞宗、南九州の島津貞久らがこれに呼応し鎮西探題に攻めかかります。

 多勢に無勢、英時は5月25日一族250名とともに自刃して果てました。高政、貞義兄弟はこの時どうしていたのでしょう?秘かに落とされたか、自分の任地にいて滅亡を免れたのでしょう。

 規矩や糸田というのは彼らの領地の名です。自ら名乗ったというより建武政権が北条という名を冠するとまずいので、あえてそう呼んだ感じがします。

 二人は、一年の潜伏の後豊前帆柱城と筑後堀口城で挙兵します。二人の任地をみると挙兵場所が逆のような気がしますが想像するに兄は鎮西探題の屋敷にいて、本拠の北九州に落ちたが、弟は肥後小国郷(北条氏の重要拠点であった)か瀬高荘(鎮西探題料所があった)にいて難を逃れたかでしょう。


 高政は三千、貞義は不明ですがおそらく二千の兵力を集めたといいます。それに対し宮方は帆柱城に少弐貞経率いる三万の大軍が、堀口城にも豊後の大友貞宗勢数万が攻め寄せたそうです。

 こうして北条一族最後の抵抗は圧倒的な建武政権の実力行使によってあっけなく滅び去りました。両者とも城を落とされ高政は自刃、貞義は戦死しました。二人の首は京都に送られます。


 それにしても北条一族は結束の強い一族だなと改めて思い知らされます。通常宗家が滅亡しても傍流のものはさっさと降伏し次の権力者に付いて生き延びようとするのが常なのに、彼らにはその選択肢がはなからないのです。

 赤橋守時は執権だから仕方ないにしても英時は妹の登子が足利高氏正室であった関係から、生き延びようと思えばできた可能性もあったのです。そんな卑怯なことはできない人柄だったのでしょう。



 全国各地で北条の残党が挙兵し、そして滅びました。中先代の乱はその最大の輝きだったのではないかと考えます。


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 ちなみに、豊前帆柱城は地図上で見つけましたが堀口城は駄目でした。三池郡内だそうですから「みやま市」か「大牟田市」のどこかとは思うのですが、インターネットで調べても不明でした。これからの研究テーマです。私の想像では清水寺のある清水山系のどこかか、旧高田町の東の山地ではないかと睨んでいるのですが。もしご存知の方はご一報ください。帆柱城は標高488mの帆柱山の頂上にあり谷には小川が流れているところから、水の手もあるなかなかの要害と見ました。
 いつか訪れたいところです。