鳳山雑記帳はてなブログ

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北条氏滅亡余話  その2

 まだ鎌倉幕府滅亡の記事を完結させた余韻が収まりません。読者様にとっては全く面白くない記事ですのでスルーして下さい。これは私が勝手に考えた事を書き綴っただけです。
 
 
 
 
 
◇赤橋登子(「とうし」  あるいは 「とうこ」)1306年~1365年
 
 
 赤橋(北条)登子は足利高氏正室です。足利幕府二代将軍になった義詮(よしあきら)と、初代鎌倉公方基氏を生んでいます。
 
 将軍家御台所として輝かしい生涯だったと思われがちですが、名前から分かる通り鎌倉幕府最後の執権赤橋(北条)守時、最後の鎮西探題英時を兄に持ちます。
 
 
 夫と兄の一族が殺し合いをし、自分の実家が夫に滅ぼされる悲劇。戦国の女の習い、と言ってしまえばそれまでですが私は彼女の悲痛な思いを想像すると深く同情せざるを得ません。夫が幕府を裏切り、実家と敵対したと聞いた彼女はどう思ったでしょうか?自分の幼い子供千寿王(のちの義詮)が鎌倉幕府を攻める新田義貞の軍に参加すると聞いてどういう心境だったでしょうか?
 
 一番上の兄守時が鎌倉で、次の兄が博多で相次いで自害したという報告を聞いてどう思ったでしょうか?
 
 
 彼女は、ズタズタになった精神の救いを仏法に求めたような気がします。将軍家御台所、二代将軍の生母として従二位に叙せられても心の底から喜ぶことはなかったでしょう。
 
 無常感を常に抱きながら生きていたような気がしてならないのです。1365年5月4日死去。享年60歳。戒名は登真院殿定海大禅定尼。臨済宗天龍寺派の京都の等持院に夫尊氏(高から改名)とともに眠っています。
 
 
 
 
 
◇博多合戦における少弐、大友、島津勢
 
 博多合戦で宮方に付いた九州三人衆の動員がいやに早かったのを私は疑問に思いました。といいますのも筑前の守護で博多とは目と鼻の先の大宰府宇智山城を本拠にしていた少弐氏は分かるんです。
 
 大友氏も筑前国内に所領があったようなのでこれも理解できます。一方南九州が地盤の島津氏が動員して軍勢を北上させる間北条方は何をしていたのか?というのが疑問でした。
 
 
 薩摩から北上する時必ず通る肥後、筑後、日向は北条一門の守護国です。いくら島津勢が鎮西探題に味方するために行くのだと言い訳をしても、情報はいずれ漏れるので途中のどこかで一合戦あってもおかしくないはずと考えました。
 
 
 あるいは海路北上したという可能性もありますが、当時の経済力、造船技術からいったらそれほど大軍を運べるとはとても思えません。
 
 
 という事は島津勢は最初から博多にいたのではないか?と推理しました。鎌倉幕府元寇に備えるために異国警護番役として九州各地の御家人を交代で北九州の防備につけていました。
 
 これなら合法的ですから誰も咎めだてできません。一定期間(4番編成・3月勤番)の勤務ですから、少弐、大友らは島津が博多に常駐する時期を狙って戦を始めたのかもしれませんね。
 
 これなら島津勢が内部から手引きしますから、やすやすと博多に侵入できます。もしかしたら大友勢も島津の相役で博多常駐。地元の少弐だけが外から攻めたのではないでしょうか?
 
 
 私は、名探題といわれた英時にしては博多合戦がやけにあっさりとしていた謎もこれで説明できると思います。
 
 
 資料の裏付けがなく私の勝手な想像にすぎませんが…(苦笑)。